工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

ウォールナット テーブル 制作 その5

鉋がけ
天板の仕上げ、鉋がけです。
テーブルという家具の最も重要な部位の仕上げですね。
かつて、Webサイトを公開した時にどこかで鉋がけについて触れたこともありますので重複するかもしれませんが、無垢の家具制作においては要諦でもありますから、簡単にではありますが考え方について少し記述します。
今回のブラックウォールナットの天板は1.8m × 0.9m というボリュームですが、2枚矧ぎというかなり高規格の構成になりました。
この材木は、5年ほど前に原木を求め製材管理してきたものでしたがとても材質が良く、製材の現場では1枚、1枚挽き裂かれるたびに小躍りしてその品質に感嘆の声を上げたものでした。
1本の材木から製材された板で、しかも隣り合わせの部位を用いて2枚矧ぎにしていますので、とても自然な感じで矧ぎ合わせることができました。
うちでは内外の様々な広葉樹を用いますので、鉋がけという作業を通してそれぞれの材種についての感触を得ることが出来ます。木はそれぞれに固有の細胞構成を有していますので、鉋を掛ける時のフィーリングで、それぞれ固有の性格というものを教えられます。
このブラックウォールナットという材種はあらゆる広葉樹のなかにあって最高の品質を有するということは、様々な要素から語られてきたことではありますけれど、ボクたち木工家、家具職人にとってはやはり鉋を掛ける時にその性質というものを身体を通して感じることができます。
文章化することに長けた文筆家ならまだしも、ボクなどが書き記してもなかなかこのフィーリングというものは分かっていただけるものではないでしょう。自身で鉋の技能を修得し、実際これほどのボリュームの天板を削り上げねば、理解して頂くことは無理かもしれない。
いえ、何も木工職人の特権的立場からの物言いをするつもりはないのですが、やはり熟練技能の世界の共通言語でしかあり得ないと言うことで勘弁願うしかないかもしれません。


ボクの木工の修業のスタートは無垢の民芸家具を製作していた木工所でした。
したがって鉋掛けの作業はありふれた日常の仕事でしたので、1日に何枚も、何枚も鉋がけに明け暮れたこともありました。
親方からも、兄弟子達からも、鉋がけについて教えて貰うような職場の作風ではなかったので、ただ経験と自己学習のなかから体得していったものです。
そのようなことからか鉋も決して銘がどうのこうの、といったことはあまり関心もなく、ただ良い削りが出来る鉋があればそれでよかったのです。
高価で老舗の銘を冠した鉋であるよりも、程良い鉋を求め、これをいかに仕込むか(鉋を含め大工道具というものは、完成型が販売されているのではなく、職人自らが自分の仕事内容、その水準に即した内容で仕込むものなのです)ということのほうがむしろ重要で、これもやはりその職人の仕事の内容と、その経験の蓄積(練度の高さ)に裏付けされたものに規定されてくるのです。
確かにこれだけのボリュームの天板の鉋がけは決して容易いものではありません。
写真のTシャツ姿は夏に撮ったものではなく、今日の作業スナップです。厚着の作業服であったものが、鉋がけ作業で1枚、また1枚と脱ぎ捨ててこのような夏着のようになってしまうほどの大汗をかいての作業になります。
しかし何故かこのような工程は嫌いなものではありません。
むしろボクは喜々として臨むことが出来ます。ましてやブラックウォールナットとなりますと、にやにやしながらやってます。
木工所によっては「無垢で、手作りで、オイルで…」と高らかに謳い、日曜大工の如き家具を造っているところもありますが、そのようなところに限ってこうした鉋がけなどを忌避しているところはゴマンとあるのです。
どのようにして仕上げるかと言えば、全てはサンドペーパーでやってしまいます。
その結果、どうなるかと言いますと、一見天板は平坦に削られているように見えますが、手で触ってご覧なさい。うねっています。平滑ではありません。やわらかい春目は深く落ち込み、固い冬目は立っています。シャープに削られることなく、aboutなものでしかありません。
またその木目は死んでいます。サンディングで無理やり削り上げると言うことは、木の繊維をカットするのではなく、押し倒しているだけですので、本来木が持つ表情を浮かび上げてはくれないのです。くぐもってしまいます。本来の木味というものが引き出されていません。
残念ながらこんな楽しい鉋がけ工程を忌避しているのが、現代の木工現場なのです。
もちろん鉋がけなど家具制作工程のなかにあってはほんの一部のことでしかありません。しかし一事が万事と言いますか、こうした有機素材特有の美的価値を生み出すことが出来る鉋がけという木工ならではの工程に示されるのは、素材との対話を通した、あるいは自然有機物を対象とすることへの敬虔な立場に立ったところからの木工芸を成り立たせている一つの象徴的な事象だと思うのです。
声高に「無垢で、手作りで…」ということに示されるある種のゆがみは、日本特有の、あるいは現代資本主義社会ならではの「ゆがみ」なのかもしれません。あるいは甘え、ある種の頽廃さえ感じてしまいます。「無垢で、手作りで、オイルで…」などということは、木工家具を製作する上での単なる属性にしか過ぎないではないですか。
属性に拘泥するのではなく、木工の基本に立ち返り、近代という時代を経てきたボクらにとって高品質な木工とは何なのか、もっとまともに対峙してみたいと思うのです。

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