工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

不可逆的な生態破壊を伴う生存様式はいつまで‥(COP10を前に)

おどろおどしいタイトルになってしまったが、週明けから本格的にスタートするCOP10(「生物の多様性に関する条約」第10回締約国会議)[Convention on Biological Diversity; CBD]{Conference of the Parties; COP10}については、過去このBlogでも断片的ながら触れてきたが、どうも国内のメディアの取り上げ方はお寂しい感じがしてならないことへの疑念を表現したまでのこと。

地球上の多様な生物(140万種とも1,000万種とも言われる種)により構成されている生態系の頂点に立つホモサピエンス・ヒトの生存様式によって、とりわけ近代化わずか100数十年の過程で数百万以上の種が絶滅、あるいは危機にさらされていることが科学的に明らかになっている現在、これを座視して今の高度に進化した文明を謳歌し、飽食三昧の生存様式をとり続ける限り、人間の生存そのものが危うくなってきているという危機意識の共有から国連環境開発会議(UNCED、地球サミット、於:リオ)からスタートした会議である。

今回は名古屋市がこの国際会議を招聘し、この11日からCOP-MOP5をスタートさせ、来週、週明けから本会議が開始されることになっている。

昨日のニュースで「名古屋・クアラルンプール補足議定書」というのが採択されたことが伝えられたが、遺伝子組み換え作物による生態系への被害対策を定めた新ルールの原案ができたということになる。
日本政府の環境省、外務省筋は、議定書に「名古屋」という名称を入れることに執心したようで、これが結実し喜ばしいところかもしれないが、しかし重要なのは全体会議における「名古屋議定書」が果たして採択されるかどうか、というところにある。


しかしこれはなかなか難しいのではとの観測がもっぱら。
つまり医薬品や食品のもとになる動植物や微生物など「遺伝資源」を利用して得た利益の一部を、利用国側が資源の原産国側に配分するためのルールを定める(asahi.com)というのが主内容となるものだが、これを利用している先進国と、供給する側の途上国との根本的な利害対立が露わになってきているからに他ならない。

議長国としての日本政府には、これを採択へと持って行くだけの哲学、理念、外交力、会議運営力、ネゴシエーションの力量が問われることになるが、先の改造内閣で環境大臣になられた御仁は残念ながら環境問題に携わったこともないような議員で唖然とした。
昨年、コペンハーゲンCOP15において、鳩山首相が提唱した温室効果ガスの排出量25%削減政策を推進する立場から精力的に指導力を発揮していた前大臣の小沢氏を、このCOP10を直前にして交代させた管首相の思惑はボクには全く理解ができない。
残念ながらこのCOP10をさしたる重要な国際会議とは見ていないのかも知れない。

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さて、ボクたち木を主要素材とする木工職人にとって、この「生物の多様性に関する条約」はスルーして通せるような問題ではないようだ。
これまでも再三語ってきているように、国産の広葉樹資源は急速な勢いで低減してきていることは日々の業務の中からも身にしみるほどに突きつけられてきている。

何よりも大衆消費社会、高度な文明化の過程で、南洋材をばっさばっさと皆伐してきた結果、森は荒れ、不可逆的に荒廃しつつあるという実態に関しては共通の理解となっているが、しかしこの生物多様性という観点から観ると、実はその森を活動基盤としていた様々な動植物から、微生物に至るまで、多様な種が絶滅していっているということに気づきつつあるというのが、現状である。

そうしたここ数10年の過程を知っているボクたちにとり、この木材資源を持続的に使い続け、これらの活動がまた森林を豊かに再生していく処方というものを考え、議論し、実効的な手法を編み出していかなければ、次の世代における豊かな木工活動は維持できなくなるであろうということは決して脅しでもなく、十分に想定されうる危機的状況であることを銘記すべきなのであろう。

一方で、このCOP10には国連に加盟するほとんどの国、地域が参加している中で、ただ米国が参加していないという「地球温暖化会議」同様の苦々しい構成であることは知っておきたいところだが、しかしだからといって及び腰で臨むというような姿勢であってはならないわけで、最終日29日までに、ぜひ「名古屋議定書」の採択にむけて努力してもらいたいと思うし、ボクも知らぬ存ぜぬという姿勢ではなく、注視していきたいと考えている。

「名古屋議定書」採択が困難であるというのは、世界規模で展開する食品産業、医薬品産業などの企業による生物多様性を脅かす途上国における収奪こそが最大の問題であることは議論を待たないのだが、これらの企業を擁する米国の不在こそが最大の問題であるともいえ、やはりここでも南北問題が顔を覗かしていることに気づく。

恐らくはこうした問題というものは優れて人間存在の根底を問いかけ、あるいは次なる世代に何を残していけるのか、生まれ来る未来の人に、今の世代がどこまで責任を取ることができるのか、という哲学的命題、深遠な課題として提示されていると考えるべきものなのかもしれない。

そうした視座に立つ時、今、ボクたちはどのような生存様式、生活スタイルを選択するのか、ということが問われていることになる。
例えば魚類の生態系の頂点にあるクロマグロをはるか彼方から捕獲して飽食することが、いずれはその種の絶滅へと繋がり、その下位にある魚類らの生存を脅かし、やがてはヒトという種の生存をも脅かすものになっていくという想像力、喚起力が求められているのかもしれない。

まったくまとまりのない内容に終始しているが、それだけに今後ともじっくりと考えていくテーマとして継続的に取り組んでいきたいと思う。

YouTube、今夜は中島みゆき〈転生〉より「命のリレー」(夜会 2006 version)
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=cze99ieDBZo[/youtube]

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  • artisanさんの言われるようにしっかり考えていかなくてはならないテーマですね。しかし一人の木工に携わる者として具体的に何から手をつければよいのか、、、
    それにしても不参加とは米国らしいですねぇ。

  • mu-さん、今晩は。
    人というのは生態系の頂点に立つが故にこの地球上に高度な文明を打ち立ててきたのですが、その過程は多くの種の絶滅とともにあったという冷厳な事実を前にして、人の罪深さを考えて見る、というある種の神学的テーマに陥るのも1つのあり方かもしれません。
    ただそれでは人の生存を根底から否定することにも繋がるアポリアになってしまいます。
    やはり有史以来、動植物をはじめとする様々な生命とともに作り上げてきた見事なまでの地球環境のほころびとともに人の生存が困難に陥るという学説上の、あるいは研究結果としての事実に立ち、
    有用な資源としての木材を適正に伐採、取引、活用し、並行的に森を再生していくプログラムを打ち立てていく、そうした共通の行動規範を考えてくといったことなどが課題なのでしょうか。
    むやみやたらに耐久性のない、美しくない、機能性に欠ける木工品を作らないようにしようっていうことなどをもそれぞれが自身に課す、ということ?
    またmu-さんのお考えがあればお聞かせください。

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