工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工職人が抱えるいくつものcomplex

紅梅

紅梅

はじめに

木工というモノ作りを生業とし、はや四半世紀にもなろうとしている。
一般的には、こうしてひとつのことに少なからぬ月日を積み上げてくればキャリアとして見なされるもの。
もちろん、そうした期待を含む客観的評価にふさわしい仕事内容で応えているつもりではある。

以前、あるキャリアの木工家に伴われた数人での会食の場でのこと。
この木工家が「俺はクレノフを超えたな‥‥」とつぶやいた。
彼は確かに長いキャリアを積み、一部では高い評価を獲得している家具職人だった。

一瞬、座は静まり、間もなく少し不自然なニュアンスを含む笑顔とともに歓談を交え食事は続いたのだったが、その意味するところがいかなるものであったとしても、ボクはそうした達観にたどり着くということがあるものなのか、といささか信じがたい思いを静かに胸に納めたものだった。

少なからず、ボクのような凡庸な木工職人にとってはちょっとあり得ない話しではある。
モノ作りの世界に、と言い換えても良いかも知れない。
一人の人間が完璧に物事を為すということは論理的にはあり得たとしても、現実世界ではキャリアを積めば積むほどに足らざるところばかり見えてきて、時に自己嫌悪に陥ってしまうということがしばしば。

これは単にモノ作りの完成度の問題に留まらない、その人の精神力、胆力、あるいは社会的振る舞いに関わることでもあるしね。

恐らくは「クレノフ超え」の御仁は、強い精神力を持ち、そうした振る舞いが似合う人であるのだろう。

木工という仕事とは

ところで、木工というジャンルのモノ作りには多くのテクニカル的な領域の蓄積が問われてくるということはご理解いただけるだろうか。
つまり物理的特性の不安定さを抱える有機素材の木という素材を対象として、切って、貼って、削って、繋いで、組んで、という一連の作業工程は、それぞれの工程において、この不安定さを制御し、また利用するための的確な手法に習熟した技能が要求されてくる。
もちろん、それぞれの習熟段階でできることはたくさんあるだろう。

木工家具というのは、まずもって決して芸術的産物ではない。とりあえずは用に足るものを製作しさえすれば、社会的要求に応えられると言っても間違いでは無い。
事実、いくらでもそうしたケースはある。
この木工が抱える本質というものは、時にイージーで甘さが許容されるものとして、ボクたちの作風を貶める陥穽ともなるわけだ。

ただ、日本の木工芸の歴史の蓄積を考え、あるいはグローバルな現代世界において、木工で自立するという立ち位置を考えた場合、やはりそうした客観的な評価基準、いわばグローバルスタンダードに準じた品質というものをまずは措定するというのがボクたちのあり得べき姿でありたいと思う。

多くの先人が遺していってくれた木工芸、木工家具というものは恐らくは世界水準のものとして誇って良い。
同時に日本という極東の小さな島国で生を受け、この日本に住ませてもらっている中から育まれてきた美意識、思考というものを備える者として、木工というモノへの視座は恐らくは世界的に十分に通用する水準のものがあると信じたい。

そうであれば、それにふさわしい品質のモノ作りに勤しむというのが木工職人としてのあり得べき1つの姿だろうね。

ただそうした理解に立つとしても、それに応えるには木工の様々な技法を習得しなければならないのだが、実際はその木工職人が置かれた環境、あるいは意識の差異も含め、様々な足らざるところを抱え込みながら、日々の活動に追われているという側面が否めない。

タイトルのcomplexとはそうしたことを指す。
あるデザインを具体化するためには多くの技法が要求される。
もちろん稚拙な技法でもそれなりのものができるとしても、本来の木工技法体系を投下すれば、もっと無駄なく納まり、美しく見せることができるということは少なくない。

木工芸とはそうした蓄積に踏まえ、適切にそれらを選択し、組み合わせたものでできあがっているもの。

あるいは同じ結果を生み出すにしても、そこで用いられた技法、テクニックによって、生産性が大きく異なるということもあるかもしれない。

恐らくは、これも無駄なく、美しく仕上げるための重要な要素と言って良い。
無駄が多く、無理矢理こしらえたものに美しさはない。

やはりよりよいモノ作りをするためにも、様々な技法を習得し、これを積極的に使いこなし、さらにはここに新たなアイディアを付け加え、機能性に富み、より美しいものを作り上げたいものだ。

例えば

先だって取り上げた蛇口(馬乗り)という仕口やら、面腰というような基本的な仕口は、建具屋から、家具屋まで、木工における基本的でユニバーサルな技法の1つなのだが、そうしたありふれた仕口を用いずに扉などを制作するために、とても無理で汚い納まりで由とする著名な家具屋、木工家も少なくない。

イモでくっつけて、接合部のメチを隠すために(メチ払い工程を省略するというオマケも含め)大きくえぐるなどの手法などがその1つの例だね。
あるいは組み立てた後に、角面をトリマーなどで取り、残念ながらそれでは及ばない内隅の接合面を手ノミでごまかすなども同じだ。

先のボクのフラッシュ苦手も同様の問題を抱える。
現在という時点に立って見た時、基本的なフラッシュ技法を備えていないのは、やはり損失。美しく杢を練り、適切に使いこなすことでデザインのバリエーションは増え、新たな自由を獲得できるだろう。
所与の前提として、フラッシュ技法を排除するものであってはいけない。

いかにして

さて、こうしたモノ作りを体現する木工職人にショートカット的な道筋など無い。
ネットで簡便に技法を習得するなどということはできようもない。

汗にまみれ、身体を酷使し、時には足でキャリアの木工職人を訪ね、あるいは古書をたずね、優れたものを鑑賞し、そうした意欲と、真摯な思考、そして少い才能であっても精一杯発揮させ、日々前向きに鍛錬し、木工を真に楽しむことだろう。

ボクはこの世界に入ったのも遅ければ、その後の修行環境も決して十分なものではなかったかもしれない。
しかしそれを言い訳にはすべきではない。道は自らが拓くもの。
ボクたちモノ作りの者にとって、作り上げたモノが己の映し鏡。

やはり、四半世紀経てもなお、足らざるを認め、これを克服すべく次に挑むという、軽やかで、強靱な力こそ自らのものでありたいと思う。

もちろん、それを果たしたとしてもなお、冒頭の「クレノフ超え」をつぶやくことなどできようも無いことも明らかなのだが。
違う道筋ではあるかも知れないが、そうした境地に挑むという人間的営みの美しささえ信じることができれば、例え才能が無いとしても、その人はその人として十分に木工で生きる価値はあるのだから。

終わりに

complexと言うので、鼻が低いとか、足が短いとか、美しい女性の前では赤面するとか、そうした話しを期待した向きがあるやも知れないが、身体的complexなどは、この年になれば大層な問題では無くなるね。

つまり多くのcomplexは均しく若さが抱える問題で、オトナとしての社会的、人間的洞察が備わるとともに、それらが占める問題は意識に上らなくなっていく。
社会というものが見えてきて、人生にはもっともっと大きな問題があることに気づき、そちらに意識がシフトするからだ。

しかしなお、ボクのような者にとり、木工における様々なcomplexは未だなお健在で、時にこれまでの木工人生を悔い、今もなおあがきつつ現場に向かい木と対峙するということになる。

Top画像は記事とは関係ありません。

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

このところ厳しい寒さが続いているが、春への胎動が無いわけではないようだ。

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  •  「クレノフ超え」(なんだか「天城越え」みたいですが、、)はイタイですね、失笑が聞こえそうですね(失笑)。

     コンプレックスと年齢のくだり、納得致しました、ということは誰かを超えるということに多くをかけている状態はお若いということかしら、、。

     単に加工技術だけであればクレノフを超えることは若くても充分できることでしょう。が、技術のみでは無い、「木の仕事」をしているクレノフを超えることのできるひとはなかなか居ない気がします。
     木工をするひとはもっともっと木に向かうべきなのでしょうね。

  • >コンプレックスと年齢のくだり、納得
    若さと老い、という命題はさまざまに語ることができますが、今回の記述では、瑣末なところに関心を及ぼすだけの体力、知力を持ちうる若さに対し、老いの良さとは、そうした領域をスルーし、シンプルに考えることができるというところに焦点を当てたわけです。

    さらに・・、
    >誰かを超えるということに多くをかけて
    越える、ということであれば、結局は個別具体的な問題云々というより、人間そのものの器を問う、というところに関心を及ぼしたいと願うようになってきたかも知れません。

    もちろんひとつの領域を極めると言うことで到達できる世界の大きさは認めますので、何事もその世界で精進するということは基本でしょうね。

    クレノフ云々では、仰るようにコンテンツそのものだけではない、コンテクストの深遠さを読み解くことが重要であるように思います。

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