工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

建築家 白井晟一 [精神と空間]を観る

企画・パンフレット(クリック拡大)

2011年、年初の美術鑑賞は建築から。
《建築家 白井晟一 精神と空間》と題された白井晟一氏の回顧展。
会場は「パナソニック電工 汐留ミュージアム」

会場に展示された手描きの設計図面は、とても緊張に満ち、グラデーションの表現までが細〜い鉛筆のラインで描画され、美しいものだった。
見慣れたCADから吐き出されたものとは次元の異なる、設計者の鋭い眼差しと、研ぎ澄まされた思考の量感までが描写されているようで感銘を受けた。

ところで、住まいの近くに「静岡市立芹沢銈介美術館」があり、展示企画替えごとに足繁く、とまではいかないが、関心領域の企画の時には出向くことがある。

もちろん鑑賞対象は企画展示品にあるわけだが、多くの美術館がそうであるように、その美術館の佇まい、あるいは内部空間、しつらいなど、建築空間に身を置くことは付随した目的、という以上のものがある。

建築家・白井晟一をそれとして意識させられのも、彼の代表作の1つとなった、この芹沢銈介美術館(石水館)を最初に訪れた時以来のこと。

‥‥ いや、そうではなかった。
今では記憶さえあやふやになっているが、家具制作などに全く関心のない1980年代初頭の頃だったか、大江健三郎、磯崎新などを編集同人として岩波が編集発行している季刊雑誌の中で、磯崎氏の論考にこの白井が登場していたような記憶がある。

いや、違ったか。これから木工をスタートしようと密かに思い定めていた頃、数人の木工家に押しかけ、話しをうかがうということがあったが、その一人である今は亡き早川謙之輔氏の付知の工房を訪ね、そこで詳しく聞いたのが最初だったかもしれない。(こちらは明確に覚えているので間違いでは無い)

ともかく、白井晟一を意識させられたのは、そんな風な曖昧なものでしかなかったことだけは確か。

家具職人として修行をスタートさせたのは、既にこの美術館の竣工後、数年経過していたこともあり、また当時は静岡にはほとんど訪れることもなかったので、建築工事中も関心外。
そして静岡に定着して木工を始めた頃と同時期に芹沢美術館に出向き、石材を積み上げた洞穴のごとくの建築物と対面することになった。

静岡市がどのような経緯で白井晟一氏に設計依頼したかは分からないが、最晩年の作品であり、また彼にとっては決して多くない公共建築物ということで、建築当時はかなり話題になったのではないか。

個人的には芹沢美術館の洞穴のごとくの、あるいは母親の胎内のごとくの独特の心地よさを体感しても、それをどのような建築思想によって構成されたものなのかを問うというほどの意識は無かった。
せいぜい新宿OZONE・7Fの図書コーナーで業績の数々をパラパラと眺める程度のもの。

今回、回顧展様の展示構成を眺めつつ思ったのだが、一度あらためて日本近代の建築というものを総体として捉え直してみたいという願望が沸き上がった。
恐らくは白井が異端な存在であったことも、丹下健三を頂点とする戦後建築界の潮流を総体として捉える中からその位置づけも見えてくるだろう。

例えば今回の展示において最も注力されていた原爆堂計画(丸木位里・赤松俊子さんの『原爆の図』を収蔵展示する施設として構想)[1] のプランからは、この建築家のエネルギッシュで強い平和への祈願、思想の高みを見る思いがする。
戦後間もない頃の設計であるが、いわゆるモダン思想に背を向けて、独自の建築思想をごりごりと塗り込んだカンチレバー(片持ち梁)方式のそのフォルムには圧倒される思いがした。

プロフィールに拠れば若き頃、ドイツ留学、ベルリン大学哲学科に入学、ヤスパースに師事したことからも伺えるように、当時の欧州を席巻した大戦間の自由な雰囲気、近代精神のシャワーを浴び、時には革命運動のさなかに身を投じたこともあるというから、その背骨に貫かれる思考のルーツを推し量ることができる。

また白井の場合、建築の仕事の他、書、エッセー、装丁など様々な分野で余技ならぬ多彩で良質な文芸、美術活動を遺しているが、これもやはり一建築家という枠に封じ込めることのできない大きな人物であったことを教えている。

ただ一方、やはり建築というクライアントあっての事業という制約から、彼の思想、あるいは知的試行の建築への投下ということも、日本国内の伝統的様式、あるいは「用の美」という機能を踏まえてのものとして、“変容”させられていったことも確かなようだ。

しかし近代日本というものが、伝統的美意識、意匠(ある種の封建遺制を持ちつつ)などに、近代の思潮、デザイン様式をつぎはぎしたようなちぐはぐでキッチュなものに堕してしまいがちな傾向から距離を置き、独自の美質を追求していったのだろうと思う。
恐らくはそこでの強い葛藤、自我の中での悲劇的とも言える闘争から生まれ出たものこそが白井晟一という近代日本における希有な建築家を特徴付けるものなのだろう。

彼の場合、青春時代を欧州での熱き30年代に送ったことでの、特異な、近代との出会いと武装だったからこその帰国後の葛藤と闘いだったのだろうが、本質的に言えば、ボクたち戦後生まれの表現者にとってもさほどその置かれている状況が大きく変わるとも思えない。

つまり未だもって、白井晟一氏をとらえて放さなかった、日本的なるものと近代との葛藤の背景の本質は変わらないにも関わらず、当事者の意識がばかりが希薄となり、ポストモダンから、モダンの再評価などといったように表層の潮流だけが移ろい、消費されていくばかりなのだ。

次に上京する機会があれば、芹沢銈介美術館竣工の1年前の作品《渋谷区立松濤美術館》を久々に訪れてみようと思う。

名称:建築家 白井晟一 精神と空間
   SIRAI- ANIMA et PERSONA
会場:パナソニック電工 汐留ミュージアム
   東京都港区東新橋1-5-1パナソニック電工ビル4階
会期:2011年1月8日(土)~2011年3月27日(日)

なお、付言すると、既に良く知られているように、この芹沢銈介美術館の内装における見事なミズナラのチョウナはつりの痕跡を残した天井、扉などの制作施工は、白井晟一氏のたっての依頼を全面的に請けた付知の早川謙之輔氏に拠るものである。

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❖ 脚注
  1. 赤松俊子は丸木 俊さんの旧名。
    現在は埼玉県東松山市に「丸木美術館」として「原爆の図」を常設展示している。 []
                   
    
  •  僕は群馬の方に行ってきました。
     中学生の頃、白井さんに色々とお話しして頂きましたが、子供にも手を抜かない、難しくも判り易い(今思えば哲学ですね)お話ばかりでした。
    「早川くん、男は建築家だよ、もちろん君のお父さんもそのひとりだが、、」とやさしい笑顔で言われ、人生を決められてしまったような気がしたのをよく憶えています。
     倉庫には「s.sirai」と白墨で書かれた材料がまだあります。付知に檜で御自身の別荘を建てる計画も今では懐かしいものになってしまいました。

     石水館の設計を依頼された主体は芹沢さんですね、それが収蔵品を寄付される条件だったと聞きました。

    • たいすけさん、群馬では内覧会、オープニングレセプションのようなものがあったのかもしれませんね。
      展示対象も、スペースの問題等でやや異なるようです。

      >子供にも手を抜かない、難しくも判り易い(今思えば哲学ですね)お話
      中学生と言えば白井さんの思考スタイル(近代的自我を基礎とする)からすれば、十分に、“個として確立した人”として見做したのでしょうね。

      > 男は建築家だよ
      “含蓄”がありますね(微苦笑)
      あなたの今に繋がる対話だったのですね。

      >付知に檜で御自身の別荘を建てる計画
      そうだったのですか。
      まだまだ精力的に活動できたでしょうに、亡くなられたのは石水館竣工、数年後です。

      >石水館の設計を依頼された主体は芹沢さん
      そうでしたか。
      芹沢、白井 両氏がどのような親交を結んだのかは興味深いものがあります。

      PS:本来であれば、この回顧展も石水館のようなところでやるというのがあり得べき姿かとも思いますが、地方都市の悲哀ですね。

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