工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

20年という月日が経過して‥‥(ベルリンの壁崩壊から)

ベルリンの壁とはいったい何だったのだろう。

今朝のNHK BSの欧州各国TV局ニュースはブランデンブルグ門前特設会場でのベルリンの壁崩壊20年の記念式典で埋め尽くされていた。

ベルリンの壁の跡に沿って1.5キロにわたり設置された約1000枚の巨大ドミノの倒壊は見るからに圧巻だったが、冷たい霧雨が降る中、記念式典には10万人を超える市民とともに各国首脳が参列し、この世界史的な出来事を祝っていた。

またその会場ではダニエル・バレンボイムが率いるベルリン国立歌劇場管弦楽団によるベートーベン交響曲第7番の第4楽章が演奏され、大群衆の喝采を浴びていた。

バレンボイムにとってはこのベートーベン第7番は、20年前のこの時、たまたまベルリンに滞在していて壁崩壊の3日後の11月12日に東ドイツ市民を西ベルリン地区のコンサートホール「フィルハーモニー」に招き記念の演奏会を開いて以来の再演だったとのことで、マエストロにとって万感胸に迫るものがあったようだ。

記念式典の挨拶に立った独メルケル首相は満面の笑顔で「危険を冒し、街に出て自由を求めた多くの人々の勇気をたたえる」、
「わたしたちはともに『鉄のカーテン』を倒し、それが21世紀に向かう力を与えてくれた」と語っていたが、彼女は20年前東独に暮らす35歳の物理学者だった。

「でもその日(89/11/09)は木曜でした。木曜はサウナに行く日と決めていたので、いつものように高層ビル内のサウナへ行きました」と語り、さらに

サウナの後、友人とバーへビールを飲みに行ったが、その店を出たところで西ベルリンになだれ込む大群衆に押し流され、自分たちも西ベルリンに足を踏み入れたという。

その後は西ベルリン市民と祝杯のビールを飲み交わして帰宅。翌日は妹と一緒に西ベルリンの有名百貨店カーデーベー(KaDeWe)に出かけた。西ヨーロッパの消費社会の象徴ともいうべきその百貨店には、共産主義社会だった当時の東ドイツにはないものが何でもそろっていた

と続ける。

一方当時の西独コール元首相は当然にもこの式典への招待を受けていたものの、車いす生活を余儀なくされ、話すのも困難な状態ということで欠席。

また式典には当時ペレストロイカという名の民主化の先鞭を付けた元ソ連大統領、ゴルバチョフも参列していたが、現在の実質的指導者、ロシア・プーチン首相は当時東ドイツのドレスデンにKGBの情報員として駐在し、東独の秘密警察の管理指導を行っていて「勤務していた建物に市民が押し寄せ大荒れの状態だった」と振り返っている(今回のKGB時代の本人の告白は初めてのことだと言われる)。


こうして20年という時間の経過はそれぞれの主役を交代させ、それぞれに思いを語ってくれているのだが、このベルリンの壁崩壊という20cにおけるエポックも決して歴史的遺産の1つとして封じ込めるほどには冷却されていないようだ。

今も熱い坩堝の中で、その検証を問われているように思える。

何よりも「自由」を求めて東独から西へと壁を打ち壊して雪崩れ込んだ人たちに見舞われている昨年秋のリーマンショック以来の世界的な経済疲弊は、東西の経済格差をより強めるものとして結果し、これら旧東側諸国の人々をさらに苦しめ、再統合という華やかなセレモニーが終わって迎えた資本主義諸国、西側の冷徹な現実というものを突きつけられているというのが実態だ。

主役交代というタイトルにしたのは、上述の首脳たちの交代という含意もあるが、この20年記念式典のメディア報道からはギュンター・グラス(ノーベル文学賞受賞者、『ブリキの太鼓』など)の発言が探せ出せないことを指してのこと。

記憶している人もいるかもしれないが、この89年の壁崩壊後の東西両ドイツの統合への動きに対し、保守派からの批判を浴びながらも「性急な再統一は混乱を招くだけ‥」、と懐疑的な姿勢を示し警鐘を鳴らしていたのがこのギュンター・グラス。

実は西独の基本法は、来るべき統一の際には憲法を定めなおすという前提でつくられていたのだが、しかしコール西独首相は再統一を急ぎ、州を連邦に編入するという基本法の手続きを用いて東独全体を西独に編入してしまった。

東西に横たわる制度の違い、インフラの違い、経済格差もほとんど真剣には顧慮することなく、あの壁崩壊時の熱狂的とも言うべきエネルギーの赴くままに事を運んでしまった。

壁崩壊後に暴露された「シュタージ」(国家保安省=秘密警察)の書庫には600万人分とも言われる秘密文書が保存され、恋人、友人を含む隣人などからの密告、盗聴から得られた情報で埋め尽くされていたようだったが、対象者たちにとりこれらは立ち直りの利かないほどに人的関係を寸断させたようで、その後20年を経た今もなお心身の傷は癒えようもない。

こうしたことを含め、壁崩壊後の拙速な再統合がもたらした混乱と不和を想起すれば、ギュンター・グラスの懐疑はやはり先見性があったと言うべきなのだろう。
玉ねぎの皮をむきながらしかし、この式典には彼の姿はない。

世界の多くのファンを驚かすに十分な告白があったからだ。(『玉ねぎの皮をむきながら』

2006年8月、自身がナチスドイツの武装親衛隊(Waffen-SS)であったことを語ったのだった(06/08/11付けフランクフルター・アルゲマイネ紙)。

SS入隊は17という年齢だったようだが敗戦までの5ヶ月間の従軍だったらしい。
その後のドイツ国内に留まらない世界中からの彼への批判は言うまでもない。

ここではあまりこれ以上触れないが、ノーベル文学賞返還すべし、という声も少なくなかったようだし、一方で告白した勇気を讃えるものもあった。
あるいはそうしたものと文学上での業績は別だろう、といったようにその評価は様々。

ただ、上述のように、先見性への再評価もあって然るべきという今日この時に、彼の言葉を聞けないことを残念と思うのは、少しずれちゃっているのだろうかね。

しかし救いがないわけではない。
この記念式典が始まる前に「メルケル首相は旧東独の民主化運動指導者だった約100人を、東西通過地点だったベルリン北部ボーンホルマー橋でのイベントに招いた」といった報道に接するとき、20年という時間経過がもたらした欧州の人々の寛容と、EUという政治的試みの成果の1つを見せてくれたものとも思える。

(もちろんナチスへの歴史的断罪と徹底した批判は決して止むことなど無い。これは日本における満州事変から始まる15年戦争という軍国主義の暴走への今日における視座とは、ほとんど非対称なものだろう)

だが恐らくは壁崩壊後20年という時間の経過というものは、東独一党支配の下での秘密警察による暴虐を受けた多くの被害者にとってみればその傷の癒しには十分な時間ではないのだろう。
数世代を超えるほどの時間の営みと、人々の希望への歩みをもってしか乗り越えることはできないのかもしれない。
そしてこれらの人々の営為というものをギュンター・グラスに替わって文学として昇華してくれる若者がでてくるに違いないだろう。

ここで重要なのは、壁崩壊というものが一方の政治制度の勝利だった、などという“定説”への懐疑ではないかと思う。

その後の新自由主義の暴走というものは昨年来の未曾有の世界大的な経済的混乱として誰の目にも明らかとなってしまった。

「自由」を求め壁を打ち壊した人々の未来が果たしてそうしたものであって良いわけではないだろう。

無論秘密警察が暗躍するような政治制度に未来があるはずもなく、多くの流された血の教訓から何を学ぶべきかを考えねばならないのだが、現在進められているEUの統合という理念こそ、賢明な回答と言えるのだろうと思う。

この混迷の中から垣間見られる民族主義的で狭隘な思考へと逃れるというのは決して賢明なものではないことは、ナチスの暴虐を経験した現代を生きる全ての人が持つ共通の教訓だ。

その行く先はあってはならない戦争であることも確かなのだから。

極東においても位相は異なるものの、その本質に大きく違いはない。
愚行は繰り返してはならない。

一度目は悲劇でも、二度目は喜劇でしかない。

*本件、引用などはメディア「AFP BB News」などを参照させてもらいました。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 壁崩壊の数ヶ月前、89年5月から6月にかけて
    西ドイツに出張していたのを思い出します。
    当然、数ヵ月後にこんなことが起こるとは
    知る由も無く、西ドイツ国内を廻っていました。まあ、一部の人々は察知していたのかも
    しれませんが。
    出張中、竹下内閣退陣のニュースを聞いたのを
    覚えています。
    日本はバブルの真っ最中、私にとっても
    その後、失われた10年どころか、失われた
    20年が到来しようとは知らずに、のんびり
    した生活を送っていたものだと思います。
    当時には良い思いでもありますが、ドイツも
    日本もそれぞれの20年だったのではないでしょうか。
    さて、これから20年、どうなりますやら。

  • メルケル首相、プーチン首相の当時の様子、
    興味深く拝見しました。
    半年前に訪れたベルリンで、この壁崩壊までの一連の流れが
    そこに暮らした市民の小さな一歩から始まっていることを
    強く強く思い知りました。
    思いもよらず 壁崩壊から20年の今年
    ベルリンを訪れることが出来たのは とても良い体験でした。

  • acanthogobiusさん、ドイツへの親和性がある人だなと感じてはいましたが、そうした経緯があったのでしたか。
    当時の回想をしていただきましたが、つられて私もいろいろと思いおこされました。
    あの頃は前年に工房を起ちあげた時期でもあり、大車輪の如くの仕事の虫でしたね。
    > さて、これから20年、どうなりますやら。
    そうですね‥‥、私は生き存えているかさえギモン(苦笑)
    社会的には、少しでも穏やかに生きやすい時代へと移行してもらいたいものです。
    諸課題、山積ですが、政権交代が転機であることは疑問のないところです。
    無論スムースにいくわけが無く、スパイラルな(上向きの)歩みでしかないでしょうがね。
                  ※
    サワノさん、どっぷりとベルリンの風に吹かれてきたのでしたね。
    美術館と、スイーツも良かったでしょうが、
    街の佇まい、空気感、市民の何気ない振る舞いに、
    ドイツというものを感じたかも知れませんね。
                  ※
    難渋なテーマにも関わらず、コメントいただいたおふたりに感謝します。
    明治以来の日本近代化にあっては最も関係の深いお国のことですから
    今後も関心を寄せていきたいものです。
    このところ『善き人のためのソナタ』、『ヒトラー 〜最期の12日間〜』、『グッバイ、レーニン!』、『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』etc、かつてない勢いで良質なドイツ映画が公開されており、いずれも見応えのあるすばらしい作品でした。
    こうしたところからも歴史的な検証が進んでいるように思われます。

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