工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

多木浩二さん、どうぞ安らかに(訃報)

近年、哲学書に目を通すことはとんと遠ざかっていたが、1つの例外があった。
多木浩二さんの美術、思想哲学に類する書への接近である。

数ヶ月前もいくつかの書を求め、拾い読みしはじめていた矢先だった。
この人の書はもちろんのこと、講演、鼎談、インタビューなどに触れた事がある人は一様にその博覧強記ぶりには驚き、そして知の愉楽について深く親しむことができたはず。

来歴をみれば1928年生まれとあるので、敗戦時1945年は17才、旧制三高の学生で敗戦を迎えたということになる。
思想形成における時代背景というものは大きな要素の1つであることは言うまでもなく、敗戦を思春期に迎えたことの意味するものは多木さんにとって小さかろうはずもない。

一般には多木さんは美術評論家としての肩書きで呼称されることが多かったと思うが、そのフィールドは広く、また深いものがあった。

taki koujiボクが興味を抱き、接近していったのは主要な著作が刊行された後のことだが、最初は欧州中世の家具調度品の研究から、建築、都市へと広がる「モノ」への欲望としての社会学であり、あるいは修辞学の魅力に惹かれたからだった。

現代のようなハイパー資本主義の時代における成熟した文化の下でのモノ作りというものは、近代初期の頃のような様式的に定義づけられるものなど無く、ただの欲望の氾濫の如くとしか見られず、それだけに歴史を遡っての都市、建築、家具調度品へと遡及していくことで見えてくるものがあるわけだが、多木さんの研究対象は、そうした家具職人を導いてくれる1つの窓口であった。

しかし著書に入り込むと、単なる「モノ」の世界から思想哲学の領域へと飛翔し、「モノ」の世界を俯瞰し、より深く、より広く再定義すると言った風で、「知の愉楽」に遊ぶことにも繋がるのだった。

3.11、とりわけ福島第一原発事故を巡って、もし彼がコメントを求められたとすると、果たしてどのように応えただろう。
「‥‥、爛熟し腐朽する文明、欲望の異常なまでの肥大化は、破滅するというのが歴史的な必然‥‥」
「廃墟からこそ、新たな文明は起ち上がっていくだろう‥‥」などと語ったとしても、ボクは多木さんらしいコメントだと思ったに違いない。

どうぞ安らかに、多木さん、本当にありがとう。

[東京新聞]お悔やみ:多木浩二氏死去


《関連すると思われる記事》

                   
    

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.