工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

東日本大震災・災害ボランティア活動日録(8)

被災地・災害復興支援活動

3月25日(地震発生から14日経過)天気:曇りのち雨

ボランティア活動のその日の登録を前に、早朝から石巻市街沿岸部を眺望できる「日和山公園」に5名全員で向かう。

石巻に入って3日目に入るが、市街地の惨状というものは走行の度に新たな衝撃と哀しみを誘う。

石巻市沿岸部(石巻市民病院) 石巻沿岸部(日和山より)

日和山公園はJR石巻駅から南に1Km余りの位置の住宅地として造成されつくした小高い丘陵地の一角にある「鹿島御児神社」の境内を公園として整備されたところ。

石巻ボラセンのスタッフから聞いてはいたのだが、ここから海に向かっての地域は、旧北上川を挟み、東西の地域、および中瀬と呼ぶのか、いわゆる中州のすべてと言って良いほどに壊滅的な惨状を呈していることを目の当たりにする。

石巻の地形に関する沿革などは不明なるも、恐らくは埋め立て地として開発されてきた地域のそのほとんどがやられてしまっている。
湾岸に近い位置に立地する石巻市立病院の白いビルだけがポツンと残っていることに、むしろ強い違和感を覚えるほど。
焦土と化す、という表現があるが、煙こそ出てはいないものの、まさに絨毯爆撃攻撃を受けた後のような惨状である。

アポカリプスの世界とは、果たしてこのようなものか、と思わされるほどに‥‥。

石巻市街 被災者住宅内

通勤通学時間帯のこの頃、通常であれば忙しく行き交う人々の熱気であふれかえっているはず。
しかし走る車両も無ければ、人の姿も皆無。

全てが大津波に洗われ、さらわれ、建造物、生活の痕跡などを探すのが困難なほどまでに消失し、これに代わって様々なガレキが無秩序に散乱。
そこだけ3.11から時間の経緯を忘れ、停まったままであるかのように。

この沿岸地域を抜け、大津波は一気に石巻市街へと襲っていった。
恐らくは津波に追われながら、この小高い公園へと逃げ延びた人は大勢いたに違いない。

震えながら、怯えながら、我が町の、我が住まいの、我が家族の、我が友らの惨状をどのような思いでみつめていたのだろう。

境内の最南部にある鳥居の周囲にはいくつもの花が手向けらていた。

メンバーのほとんどは口数も少なく、静かにここを後にし、続いて市街地へと降り、車を旧北上川西岸近くに停め、周囲の惨状を視察。


大きな地図で見る

上のGマップ(地図上、アンカー:Aが日和山公園)を移動してみれば分かるように、ガレキなどとともに陸に上げられてしまった船などを見ることもできる(このGoogle航空写真の撮影日は不明だが、恐らくは3月中旬に撮影されたものと思われる)。
旧北上川を逆流してきた津波によるものだろう。(例えば、こちら:http://goo.gl/maps/RL7J

暫くの滞留の後、石巻ボラセンに戻り、軽い朝食を摂り9時の登録に備える。

本日の支援対象、基本的な内容としてはこれまで同様、個人被災住宅の家財道具の片付けなど、ということだが、ボラセンのスタッフ、果たしてこの5名で大丈夫だろうか?
少し不安げな顔を向けてくる。
依頼内容が記されたシート、および添付された住宅地図には4戸の住宅が赤くマークされている。
恐らくは一戸、一戸の被災が甚大で、数があることへの危惧なのだろう。

当方は26日まで活動し、翌27日朝に撤退させていただく予定であり、残りまるまる2日間あるので、それまでせいいっぱいやらせて頂く。
やりましょう !
と、申し入れ、これを受諾。

すこし厳ついスタッフの顔にも笑みが指し、握手。

依頼された個所は旧北上川を挟み、蛇田地区と言われる運河沿いの個人住宅1軒と、借家3軒。

さっそく総員5名で向かう。
運河と鉄道が入り組んだところで、少し分かりにくい場所。
対象地域は明らかに津波で大きく洗われた痕跡がありあり。
やや盛り土された鉄道敷地内にも、流れ着いたガレキが散乱。
駐車場フェンスには胸を超える高さまでガレキから草、土がへばり付いている。
アパートの側壁には2階フロアの位置あたりで明らかに色調が異なっていることが現認される。
その位置まで津波が押し寄せたことの痕跡。

旧北上川へ流れ込む運河にまで津波は逆流し、押し寄せてきたのだろう。
河口から6Kmほどの距離があるというのに、である。

到着後、まずは最初に1軒の独居老人宅。
ここのお宅は既に部屋から出され、外に堆く積まれている畳を集積所まで搬送する作業。
手分けして一輪車、ネコを使い2人掛かりで運ぶが、これがなかなか大変な作業。
そもそもずぶ濡れぬなった畳の重さったらハンパではない。

この態勢は1度でギブアップ。
次はハイエースの屋根に上げて運ぶことに。
重くなっている畳を屋根に上げる作業も二人、三人がかりだ。
20枚を超える畳との格闘、難行を終え、続いて数ブロック先の借家の3軒だ。

ここには地区の民生委員のSさんが待っておられ、それぞれの状況を伺うなどしてから作業に取り掛かる。

二手に分かれ、部屋の全てがいずれも完全に浸水状態であったと思われる状況に足を踏み入れ、基本的にはほとんど全てのものを廃棄するような作業内容だ。

タンス、ベッド、机、食器棚、食器、冷蔵庫、食材、TV、ストーブ、布団、衣類、本、書類、ありとあらゆるもの。
それらをまず倒壊した状態の家具を起こし(それ自体、畳や床が異様に変形した状態の足下で、そこに様々なものが押し重なっている状態からの姿勢制御であり、簡単ではない)、家具の抽斗も浸水したことで木が膨らみ、全く開けることができないといった状態。

仕方が無い。バールでこじ開けることになる。
それら1つ1つの豪快な手法を取るにも、まずは家主の許諾を受けてのものとなるが、最初はとまどい、躊躇しつつも、徐々に決然と、お願いします ! とばかりに、促されるように変わっていく。
そのほとんど全てが再利用は困難と思われるものばかり。

ボクが担った個所は老婦の独居だったが、調度品はいずれも趣味の良さを感じさせるものばかり。
着物も多く、これらを廃棄処分するのは、いかにも忍びないと思われるところ、これも捨てちゃってください ! と決然と言い放つ。
もはや涙さえも涸れきった、失意の顔を振り絞るように言い放つ。

ところで、これらの廃棄家財の集積所は、400mほど離れた地区の小さな公園内。
この距離をネコで運ぶのは、思うほどに簡単ではない。
徐々に細い雨も降り出し、まさにドブネズミ状態での搬送作業。

この公園とのルート上では、関西から派遣されてきた水道事業者のスタッフが修復作業を行っていた。
こうして全国的に(かな?)様々な領域の専門チームが被災地で復興作業に従事しているところに出会うとお互いに励みになるようだ。
特に阪神淡路大震災で体験しているだけに、その地域のチームは熱心であるようだ。

我らがエスペランサの一員、服部さんも阪神淡路で活躍したことのある体験者の一人である。

数時間経過し、時計はお昼を過ぎ、食事時。
ボラセンで聞いていた、この地域で唯一開店しているという食堂、「温州菜館」で、限定メニューから選んで昼食を摂る。

客筋の多くは地域の方々と思われたが、辛い状況の中でも、飯ぐらいは朗らかでいたいとばかりに明るい雰囲気である。

食後は馬力を上げて、大いに健闘。
結局この日は3軒とも完遂することはできず、翌日に引き継ぐことになる。

また3日間、一緒に活動し、また寝食を共にしたHくんとはここで別れることに。
彼は、あらためて翌週、態勢を整えて入って来るという。

帰路の途上、自衛隊の車両が並ぶ場所がなにやら賑やかで、列を作っているところに遭遇。
入浴サービスだという。
松戸駐屯地からの応援部隊である。

ワォ !、よし、一風呂浴びていこう !
良く聞けば、受付〆切り時間17時まで、あとわずか。
しかし石けんもキレイなタオルも持ち合わせていない。

事情を若い隊員に話すと、声を潜めるように、こそりと「大丈夫。中で借りてください。これはナイショですので、そこんとこヨロシク‥‥」と耳打ち ?
確かに周囲を見渡せば、ほとんど全ての人が石けん、タオル、歯ブラシ、ひげそりなどが入った洗面器を抱えている。

その後待たされること、1時間を超えて2時間を回る頃にやっと番が回ってきて、入浴。
5m四方ほどのバスタブが2つ。
まさに芋を洗うとはこのこと、とばかりの混み合い。
ともかく限定的な入浴時間を厳守し、じっくりと浸かり、洗い、また浸かる。

リフレッシュとはこのことか。
その後、もはやこの時間では野営地に帰還してから食事を作るのは出来ないので、入浴で並ぶ地元の学生から聞いた、こんな状況下で開店しているようだという食事処を目指すが、すべて電気が消え、やっていない。
仕方なく、途中で見付けたホカ弁屋さんに駆け込む。

ここも調理態勢は無理なようで、遠方の工場で作ってきたと思われる状態のものがカウンターに並んでいるだけ。
まさに戦時であれば、あるものを頂くしかない。

残り少ない品数の中からそれぞれ競うように買い求める。

野営地に戻り、ボクは活動報告のためにセンターに出向く。
入浴のため、戻るのがずいぶんと遅れてしまったことを詫びつつ、明日の継続活動を約束する。
また持ち込んできた支援物資の活用法を協議。

現在、被災者支援している地域の避難所が望ましいだろうということで結論が出る。
ロケットストーブについては、その実用性、使い方などを説明し、ではぜひ湊中学の避難所で使ってもらおう、ということで方針が決まる。
この湊中学というのは石巻の湾岸部に位置し、甚大な被災を受けた方々が避難している大きなところである。

チームに戻り、遅い食事を摂り、翌日の活動内容を確認し、また翌々日の撤収態勢などについても相談する。

それまでは、テントは体育館の中で設置していたが、様々な物資が増加してきたことで、スペースが無くなり、この日から外へと追いやられてしまう。
外の寒さもさることながら、疲労の方が勝っているのか、意外と睡眠に入るのは早かったようだ。
大きな余震も構わず、ひたすら眠る。

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