工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

盛岡は桜の季節を越え、

パタゴニアへの旅ではないけれど、今日はちょっと遠く、東北盛岡への旅路。





予報では雨に遣られるところで、確かに白石あたりでは田植え前の代掻き作業で耕耘機を忙しく操作する人を濡らしているのが車窓から眺められたが、仙台を過ぎた辺りから晴れ間も広がり、何とか終日持ちこたえてくれたようで助かった。

助かったというのは、ただの観光での雨男であればともかくも、納品での搬入作業とあらば、少なからぬ影響を受けてしまうことから。

いくつかの家具を納品設置させていただく旅だが、年初より取り掛かるというかなりのボリュームだったこともあり、こうして終えたことの安堵もまた深いものがある。

当初、3月下旬の納品スケジュールだったのが、この大震災を受け、被災地でもある地域に在住する顧客の要望もあり、この時期になってしまった。

この盛岡市内の顧客の新しい住宅は、幸いにして無傷であったので予定通りに進めることもできなくはなかったのだが、状況が状況だけに、少し落ち着いてからにしたいという要望を受けてのものとなった。

新1年生を迎えた子たちの机も含まれていたので3月中にとも考えたのだが、周りの被災状況を考えた時、子たちにもその受難を少しでも受けさせておく方が良いだろうとの親の判断もあったようだ。

そして、子たちにはさんざん待たせたこともあり、喜びもひとしおであったようだ。

そしていつものように、今回も1泊での納品作業で帰路に就く。
できれば少し宮沢賢治ゆかりの地、イーハトーブに纏わる施設にでも立ち寄りたいと考えていたが、被災状況のことを考えるとちょっとそうした気分にもなれずに立ち去ることにする。

因みに宮沢賢治生誕は1896年(明治29年)だが、この年は「三陸地震津波」(明治三陸地震)、「陸羽地震」に見舞われ、そして没年の1933年(昭和8年:享年37)には大きな災害をもたらした「三陸沖地震 」[1] に見舞われている。

この宮沢賢治の生死をまたぐ大地震の巡り合わせをどう解釈するかは、地震学者でも応えようもないだろう。

この顧客にはまだ作らねばならないものもあるので、いずれまたゆっくりと訪れようと考えた。
その頃にもなれば、復興への槌音もより高く響き渡っていることだろうと思う。

今回の家具制作におき、仲を取り持ってくれたギャラリー藍さんは、この震災を期に、店を畳むという決断をしたようなのであるだが、心中察して余りあり、お会いするのも辛いものがあった。
ともかくも元気に、新たな人生を歩んでもらいたいと切に願うばかりだ。

hr

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❖ 脚注
  1. 釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200km分)を震源として発生した地震。M8.1。
    地震被災はさほどではなかったが、最大遡上高、海抜28.7mを記録する大津波に襲われ、この時に更地となってしまった田老地区はその後、巨大な防潮堤(海抜10m 、総延長2433m)を築き、1960年のチリ地震で来襲した津波を防いだものの、この度の東日本大震災による大津波は、これを超え、壊滅的な被害を受けた []
                   
    

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