工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

〈 6.11 脱原発100万人アクション 〉全国各地で

3.11から3月、全国一斉に〈 6.11 脱原発100万人アクション 〉が繰り広げられた。
こういう行動がどのような効果をもたらすのかはともかくも、「脱原発」という1つのテーマでその思いを1つに集約して街頭に繰り出すというのは、愚痴っぽく床屋や飲み屋で語るより、はるかに視覚的な訴求性も強く、大衆性もあり、実効的だろう。

ボクは3月22日から石巻市へと災害ボランティアに起ち上がったものの、その行程はフクシマから可能なかぎりに近づかないようなコースを辿った。
言うまでもなく怖かったからだが、この度の大震災を語るとき、石巻市周辺の壮絶な被災現場をこの目で捉えたことで、決して浮ついたものでは無く、ある種の皮膚感覚で認識することができた。
しかし一方のフクシマに関しては、1事象についての報道量としてはかつてなかったほどの膨大な情報が日々送り出され(また消費され)、いつの頃からか誰しもが専門用語を駆使し、いかにも分かったフリをすることが可能なほどの分量がばらまかれてきた。
だがそれらはしょせん二次情報でしかない。

放射線は見えず、臭わず、その存在は感じ取ることのできないものかも知れないが、遠く離れた静岡で二次情報から感じ取ることと、フクシマから10Km、20Km、30Km圏内ということで、住まいを、仕事を、地域を奪われ、家族離散を余儀なくされ、明日への希望も断たれたままの避難住民らの怖れ、迷い、絶望との間には、あまりにも落差があり、彼の地のことを簡単に評することなどできようもない。
(石巻への行程、かなり近郊まで近づいたある場所で道を尋ねようと停車した、とある大きな施設でのこと。大きなドアを開けると、大勢の被災者が物音1つ起てずにうち沈んでいる姿が目に飛び込み、息を呑んでしまった。それはよそものが見てはいけないところを覗いてしまった気まずさだった)

そうした彼我の絶対的とも思えてしまう差異を、少しでも埋めようという行為としてのデモという位置づけも可能かも知れない。
勝手な言いぐさになってしまう嫌いがあるものの、しかしとにかく事態を動かしていかねばならないのだから。

この運動は組織だったものではなく、各地の脱原発の思いを共有する人々が勝手に連携し合って行われたもので、どれだけの人々を動員したのかは全く分からない。
インターネット時代ならではの規模、広域性、多様性が特徴的なものだったようだ。

こうした街頭での運動というのは、これまでほとんどといって良いほどにメディアには無視され続けてきており、日本社会では市民が街頭で意思表明するという当たり前の権利行使さえ、全く存在しないか、封じ込められているかのようだった。
全く不健全な社会、まったく不健全なメディア状況だと思う。

今回の原発を巡る問題は、現在進行形の深刻な事象を対象とした社会的影響力が大きい問題だけに、メディアもそれなりに触れているようだ。

ボクは1万人規模の東京・新宿に馳せ参じようとも思ったが、いろいろと外せない所用も重なり、地元静岡の「菜の花 はまおかパレード」に参加。
学生、若者、子連れの母親、子連れの父親、おばさまたち、老若男女、多くの人が集まった。
それぞれに趣向を凝らした横断幕、被り物、プラカードで思い思いに「脱原発」を訴える。
静岡市商店街、目抜き通りをゆっくりと鳴り物付でのパレード(デモというより、弛緩した感じすら覚えるパレードだ)。

警備警察の発表ではその数250名というから、実数としては300名ほどは集まったのか。
同じ主催で行われた4月のパレードではもっと集まったという。
「浜岡4、5号機の運転停止が決まったので、安心したためか出足が悪かった」との話しも。

しかし「浜岡4、5号機の運転停止」とはいっても、防潮堤の嵩上げなどの対策を講じ、2年後の運転再開をめざす、というのだが、そうした方針は許されず、「廃炉」へと進めていかなくてはならないだろう。
フクシマのメルロダウンかメルトスルーか知らないが、とにかく「想定外の津波」にやられたからではなく、既に大地震によってメルトダウンへのトリガーが引かれてしまっていたことがバレバレな中、「地雷の上でカーニバルをしているような」浜岡(石橋克彦さんの 参院・行政監視委員会での発言)は「防潮堤云々」の次元の話しではなく、「廃炉」以外の選択肢はないのであって、そこへ向けての運動はさらに継続的に強化されていかなくてはならないと思う。

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  • 6・11 菜の花パレード浜岡への参加ありがとうございます。
    あなたのブログでの参加表明を拝見し、当日は何十年ぶりに会えるかな? と期待していましたが、集会もパレードも役割分担を引き受けたためそれだけで精一杯で、集会の発言内容もパレードの時の交流も一切なしになってしまいました。
    「デモというより、弛緩した感じすら覚えるパレードだ」とのご意見ですが、4月の時に参加されたご老人や小さなお子さんが付いていけなくなって途中棄権せざるを得なかったという意見もあり、今回はできるだけゆっくりとしたペースにさせていただきました。
     それでも今回もパレード途中で中盤のあたりを確認しますと、キャリーを杖代わりにされたご老人が一番最後のほうで遅れ気味になるなどまだまだ早すぎたのではないかと思っています。
     《七世代先を見て決定する》という現世代の責任や義務という側面や原発の核問題という本質からすると、まだまだ不十分かもしれませんが、3・11以後に初めて取り組む青年達が自発的に取り組み始めた行動ですので、何十年も反原発・脱原発の取り組みを行ってこられた皆さんとの間のギャップや、警察との関係での過去の経験者との違和感は大目に見ていただければありがたく思います。
    「こんなゆるい行動は許せない」と仰らずに大きな目標に向かって今後ともご協力・ご支援をお願いします。

    • 恒彦さま、丁寧なコメントありがとうございます。
      地元開催のパレードとは言え、見知った顔は数名で、どなたかもわからないあなたさまとの交歓もできかね、失礼いたしました。
      「弛緩した‥‥」云々の表現はちょっとまずかったと反省しています。
      全体の文脈を見て頂ければ、決して否定的な評価をしているわけではないことはお分かりいただけるものと思います。
      仰るようにご高齢の女性も少なくありませんでしたので、あのようなコース、スピード、内容での実施は無理からぬものと思います。
      ともかく、市街に繰り出し、週末の街頭に行き交う人々への異化作用を含め、「脱原発」を訴えることができたのは良かったと思います。
      デモのスタイルの問題ですが、今の時点でフランスデモ的なことを望むことなどできようもありません。
      ここ数十年間、日本においては労組の運動、学生運動、市民運動、それらリベラル陣営が壊滅的な状況に置かれている中で、かろうじてこうしたパレードが実施できるだけでも一縷の「希望」であると考えています。
      弛まず、継続的に、息長く、広汎な市民の起ち上がりを期待して努力していきたいですね。

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