工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

春の芸術祭と社会講座と映画と

昨日はめずらしく業務から離れ、朝から終日外でを過ごす。
1つめは雨も上がったばかりでやや肌寒い小高い丘陵地にある県が運営する舞台芸術公園へ。
一帯の摘み取られたばかりの茶畑と、まばゆいばかりの木々の新緑、そして何の新芽が放つのか、強い湿った芳香が漂う中を縫って静大の学生らと思しき若い男女らとともに会場へと歩む。
たどり着いたのは舞台芸術公園の楕円堂という施設。
磯崎新による建築物だが、なかなか趣のある建築空間。
バブル期のいわゆる箱物行政とも指摘されたりするものであるが、舞台芸術の企画運営を主体とするところにユニークさがあり、比較的有為に活用されているようだ。
現在は宮城聰氏という演劇人に替わっているが、開館時よりこの芸術総監督を務めたのは「早稲田小劇場」を率いたかの鈴木忠志氏であるが、これをもって舞台芸術におけるその志向も伺えるだろう。(静岡県は全国でも有数の保守王国ながら、太っ腹な人選だ)
毎年この時期に開催される「Shizuoka春の芸術祭2008」という催し。
このプログラムの中には演劇、舞踏などとともに芸術、哲学、社会学などをテーマに、碩学、学究の方々を招き「社会講座」というものが企画される。
週末の開催なのでその気になれば参加できるのだが、今期は舞台とあわせ3本だけ予約申し込み。


昨日は柄谷行人氏による講座。
『歴史の反復について』というテーマ。
ここ数年、季刊誌『at』で連載されている論考におけるテーマでもある。
対談者として席を並べたのは「池田雄一」という20代のとても若い文芸評論家。
柄谷氏が指名したのだろうと思われるが、気鋭の批評家のようだ。
全国紙の批評コラムにもその名が見える。
池田が柄谷の言葉を引き出し、テーマを浮かび上がらせるという趣向。
2回にわたる講座であるためなのか、昨日の展開はテーマに直接言及するのではなく、カントを「現象と仮象」というところから読み解くといった展開。
興味深かったのは、文学賞の楽屋裏での選考の席での選者のリアルなバトルの光景だった。
選者・李恢成が相手の胸ぐらを掴んで‥‥、というのには笑えた。
しかし選者の選考というものが、それがもたらすであろう結果において如何に覚悟というものが求められるか、という話しには納得。
また学生から「くだらない作品は、批評家がはっきりとくだらないと言ってくれないとそのよう感じている自分の正当性が周りに理解されにくい」との、ちょっと甘ったれた愁訴もあったが、確かに昨今の批評界には厳しさのあるものは忌避される傾向はあるだろう。
仲良くやればよいと言うものではない。批評精神が失われたところには新たな芽吹きなど起こりようもない。
柄谷氏などは文壇におもねるようなこともなく自身の価値基準で鮮明に批評しているものと信じたいものの、昨今の言論界の右傾化の中での立ち位置の微妙さは推して知るべし。
会場は、丘陵地の傾斜地に建設されたもので、舞台へはファサードのフロアから、地下三階あたりまで降りていくのだが、舞台空間へのアプローチは異空間への誘い(いざない)として、見事な仕掛けが施されている。
受付を済ますと、靴を脱ぎ、畳敷きになったフロアの裏側には、そこかしこに椅子が置かれ、受付でもらったパンフレットなどを読みながら休憩して開始のアナウンス(アンプを通さない地声)を待つ。
舞台と客席は名称どおりの楕円の空間を持ち、演者の息づかいも聞こえるほどの客席レイアウト。
机、椅子、ランプ、など必ずしも統一感を与えるものではないようだが、舞台の上には様々な調度品が置かれ、サロン的なイメージを作っている。
そうした設営が奏功しているのか、距離感だけではなく、演者と客席の間を阻むものが無く、両者の交流が自由な雰囲気であることはとても良いと思った。
次はここでギリシャ悲劇の舞台にでも立ち会いたいと思わせるに十分な上質な舞台である。
午後は少しインターバルがあったものの、静岡市内へと戻り、2本の映画を鑑賞。
帰宅は11時頃になり、未消化なままの多くの言葉と映像がフラッシュバックし、さすがに疲れ、床についても海馬での反芻が眠りを妨げる。

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