工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

除染するほど「住めない」はなし(福島からの便り Vol.2)


ここに1枚のゲラがある。『週刊朝日』今週号(ということは、明日25日の発売になるのかな)、「FROM F 04」[1] というシリーズもののコラム。
タイトルは〈除染するほど「住めない」と思う〉とされていて、除染活動に従事した者としては、いささか刺激的かつ挑発的なものであるかに見える。

ここで内容を詳述するのは、発刊前のことでもあるので控えねばならないのだが‥‥。
ぜひ本誌を手にとってご覧いただきたい。巻頭に近いところに置かれるページだと思われる。

この執筆者は荒木田 岳さんという若い歴史学者であるが、たまたま福島大学で教鞭を取っていることもあってか、本件の〈放射能除染・回復プロジェクト〉の主要メンバーの一人である。

福島に到着したその日の夕刻に催された懇親会で、この若き学究の徒とお会いし、お話を聞く機会があったのだが、主たる内容の1つがこの『週刊朝日』のコラムそのものであり、そのためもあってか違和感なくゲラに目を通すことができたし、彼の置かれた状況、例えば家族離散での苦しみであるとか、それによる地元知人らの間にもたらされた波紋(逃げるのか 怒!)、あるいは「除染」の意味するところの、いわば神から与えられた試練へ立ち向かうシジフォスの如くの苦しみは理解したいと思うし、実際、現場に立ち、「除染活動」の一端を担うことで、はじめてその苦しみ、悩みというものに接近できるのではと思った。

しかし〈除染するほど「住めない」と思う〉というタイトルは挑発的だ。
関心のある方には、せひ、この短いセンテンスの背後に隠された意味について考えて欲しいと思う。

例えば、今福島市内でも大きな焦点になっているのが「渡利地区」の高濃度の放射線汚染だが、まだら状ではあるものの、地域丸ごとのホットスポット的状況というものは、局所的に「除染」したところで、ほとんど意味を為さない。
これにはいくつもの要因があるようだが、1つには背後にそびえる山林が、放射線の供給源となっており、風であったり、雨であったり、自然現象がもたらす運動により、居住空間へと舞い降りて来てしまう。

あるいは柏市の高濃度スポットに見られるように、地中深く浸透した放射線が、いつ何時その牙をむき出しにして襲いかかってくるのか、決して安心できるものでは無い。

そうした状況下でのいわば徒労とも思われかねない除染をどのように意味づけるのかは、簡単に言い切ってしまうほどには人々の思考は平板でも無く、個別具体的な様相を抱え込んでいるというのが実際のところだ

荒木田さんは、そうした自身の振る舞いの決着をどのように取るのかと言えば、「歴史家」としての思考に忠実に従うまでと、ちょっと格好良すぎる答えが返ってくるのだった。

確かに言われてみれば、フクシマの現実というものを捉えようとする場合、歴史的なパースペクティヴの視座に立つことによってしか、立ち向かうことのできないものなのかも知れないとふと思った。

ただそうした歴史を刻むのは、現実と直面し、決して逃げる事無く、直視し、対峙する者に依ってしかなしえないことは明らかだろうし、例えそれがシジフォスの如くのものであっても、歴史を構成する様々な事象の1つとして、そこに疑いなくかけがいのないものとして働くことだろう。

それは、愛する父親と切り離され疎開生活を送る子たちによって、あるいはさらにその次の世代によってはじめて評価されるという、そうした時間軸の中で営まれる事業であると言うことなのかも知れない。

Top画像は除染活動を行った養護学校の施設ベランダのコケ除去作業

《関連すると思われる記事》


❖ 脚注
  1. 『週刊朝日』「FROM F 04」は福島市にある福島大学の研究室のみなさんに、放射能禍とともに生きる日常の最前線(Front Line)から「いま福島で起きていること」を語ってもらう連載 []
                   
    

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.