工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

柳宗理さん死去を悼む

今朝の新聞の訃報で知った。
96歳という高齢。
私が氏にお会いしたのは、1997年OZONEでの『柳宗理展ー三角スツールからの展開』レセプション会場でのこと。
二言三言お話ししただけのことだったが、寡黙で静かな佇まいが印象的だった。

今さらボクが紹介するまでもないほどに、日本のプロダクトデザインの黎明期から、今に至るまで時代の先端を駆け抜けてきた、デザイン界の時代の寵児だった。

家具の分野では、あまりにも著名なバタフライチェアはもとより(ルーブル、MoMAのパーマネントコレクション)、晩年もBC工房、鈴木氏が仕掛けた「楽椅子、楽座」プロジェクトに参加するなど旺盛な創作力は見事なものだった(上述のOZONE展は、そうした流れ)。

遡り、柳氏を強く意識させられたのは、信州での木工修行の途上、父親(宗悦)が設立した駒場民芸館を訪ねたときに覚えた、日本の民芸運動と、柳氏のプロダクトデザイナーとしての立ち位置を、果たしてご自身はどのように折り合いを付けているのだろう、という素朴な疑問からだった。

その後、『芸術新潮』だったと記憶しているが、民芸運動の今日、ということで、秋岡芳夫氏(秋岡芳夫展:昨日まで目黒美術館で催されていた)の論考などと併せ、柳氏の民芸というものへの現代工業社会の中における近代プロダクトデザインからの再定義というものが解かれていて、それは興味深い論考だった。

恐らくは父を継いで駒場民芸館の館長に納まるに当たっては、子息ということでの重圧と、一方でのプロダクトデザイナーとしての仕事、これを両立させるのは、業務の繁忙ということを超えて、いささかの居心地の悪さみたいなモノもあったに違いない。

しかし、若き20代の頃、輸出工芸指導官として来日したル・コルビュジェ事務所のシャルロット・ペリアンの日本視察に同行し、各地の在来の伝統工芸に触れ、その後、天童木工の創業期のいくつかの家具制作のデザイン指導を行う機会に恵まれる過程で、ほぼ彼自身の人生設計も見えていたのだろうと思う。

戦争を挟み、日本の近代化、大衆消費社会から要請される日常雑器から、建築物にいたるまで、様々なプロダクトデザインを起こし、時代を作ってきた人物としての自負と責任において、民芸というものの現代的解釈というものを、テキストの領域ではなく、まさに自ら率先させる形でモノに語らせることに秀でた人だったように思う。

謂わば近代からハイパー資本主義の時代、そして金融資本主義と、その結果としてのリーマンショックと続く混迷期を生きる我らとはいささか時間軸を異にした柳氏の活動は、誤解を怖れずに言うならば、とても幸せな時代を背景にしたものだったとも言えるのだろう。

巨大地震と大津波により、全てのものが消失していまうという3.11を体験し、消費資財というものの寄る辺無さを考えさせられ、モノが意味するものをあらためて問いかけられているボクらにとって、柳宗理の業績から何を対象化すべきかは、まだまだ多くの課題が残されているように思う。

寡黙な人だったとはいえ、金沢美術工芸大学で教鞭を執った人でもあるので、最晩年で何を語ったのかはぜひ知りたいと思う。

心よりご冥福をお祈りいたします。

*メディア訃報(毎日jp

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  • 私が柳宗理さんを間近にしたのもOZONE、
    やはりBC工房 鈴木さんの企画展示会場でした。
    関連したトークショーに参加した私は
    ここぞとばかりにサインでもお願いしようと企んでいましたが、
    会場に現れた柳さんが開口一番 みなさんの前で
    孫みたいな年齢の人に サインとか言われて困っちゃうんだ、
    なんて言っていまして うまくかわされてしまった記憶があります。
    お話しなど 私にはとても出来ませんでしたが
    「寡黙で静かな佇まい」を、私もあの時 確かに感じていました。

    • そうでしたね。
      まだ美大に籍を置いていた頃のことでした。
      裏方でかいがいしく皆さんをもてなしていましたね。

      ただテキストで知る、映像で知る、ということではなく、
      ご本人を前にしてお話を聞く、その佇まいに接する、
      と言うことは次元の異なる体験ですから‥‥、

      何らかの意志を引き継いで、ということで、
      あらためて敬意を表し、偲びたいですね。

  • うちの木工所でBC工房の鈴木さん達とワークショップをしていた頃『柳さんは作り手の言うことに耳を傾けてくれる数少ないデザイナーです』と云うことを訊きました。『こっちの言う通りに作れば良いんだよ』的なデザイナーが多い中で稀有な存在だと思っていました。仕事させて欲しかったです。鈴木さんの紹介で長大作さんの仕事は請けたことはありましたが。

    • ユマニテさん、そうでしたね、あなたの会社で試作から本格的製作まで行っていたのでした。
      >『柳さんは作り手の言うことに耳を傾けてくれる数少ないデザイナーです』
      鈴木さんは、いわばニュートラルな立場からモノづくりに関わるプロデューサーでしたが、
      その見立ては間違いがないところでしょう。

      やはり、良い仕事は相互にリスペクトするところから始まるということでしょうか。
      柳さんのそうした知的な振る舞いも(vs ヒエラルキー的に関係性を結ぼうとする、良くある手合い)、シャルロット・ペリアンら、優れた人材との交流から備わったものなのかも知れませんし、
      あるいは父、宗悦氏の民芸運動の本質に関わる作り手との関係性が反映していたと言えるかも知れませんね。

      長さんも、かなりのご高齢です。最後にお話ししたのが一昨年の春でしたが、かなり弱っていました。

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