工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

年の瀬に


午後、週末恒例の買い出しに街に出た。
風は無く、外は12℃と暖かい。

マーケットは通常モードから年越し特別モードへと品揃えが代わり、おせちかと思われる大きな風呂敷包みを抱えた客、バスケット一杯に商品を放り込む客、いずれも顔はほころび、いそいそと正月を迎えるハレのモードである。

今年もこうして穏やかに年も暮れ、靜かに新年を迎えることだろう。
巷間では2011年も何事も無く例年と同じような年の瀬を迎えているかのように映る。

ただしかし、そうでは無い人が数10万、数100万人という単位でいるというのも、この年の瀬の特徴であることは広く共有されていることだろう。
他でも無い、東日本大震災による被災者らが迎えるはじめての年の瀬でもあるのだ。

両親を亡くした子供たちが200人、片親を亡くした子どもらを加えれば1.000人を超えるということだが、華やかなハレの舞台から一人取り残されたように、寒空に光り輝く星を見上げ、親の姿を追い求める姿を想起することも必要なことだろう。

この子らが迎える年の瀬と新年が、少しでも安寧で希望が見えるものであることを願うばかりだ。

以前、このBlogでも3.11東日本大震災を1945年に次ぐ、第二の敗戦、として捉え、考えたことがあった。
しかし、かつての敗戦後の様相と、この年の瀬のまだらな紋様は、明らかに異なると言えるだろう。

1945年8.15では、ほとんど全ての人が歴史の転換点に立っていることを嫌が応にも突きつけられ、その後の人生をどのように生きるのか、あらたな価値観をどこに見いだせば良いのか、深く問いかけたに違いない。

しかし、2011年の3.11は、かなり様相は異なる。
三陸沿岸から北関東地域という、かなり広域とはいえ日本列島の一部地域に集中した激甚被災ということで、それ以外とのコントラストの差異は大きく、

あるいは、福島原発事故による放射線汚染が与えた影響と、これへの被曝者の身を守る処方の在り様は、実に多様で、その間に打ち込まれた分断のクサビは人々を、メディア不信、政府不信、社会不信、あるいは同じ被曝者への不信、そして家族の離反といったところにまで追い込まれている。
その意味では被災者は1945年の時点で置かれた人々より、その受けた傷の深さはより深いと言えるだろう。

確かに喰うことすらままならないポスト8.15に対し、ポスト2011.3.11のそれは、生きることに事欠くことは無いという大きな違いがあることは紛れもない事実だ。
しかし、原発大震災から9ヶ月を経て、被災者、被曝者が置かれた現実を丁寧に見ていけば、明らかに幾層ものレイヤーで市民たちは分断されていることが見えてくる。

これは国家から強いられたものという側面だけではなく、市民らがそれぞれが置かれた立場から、あるいは思考スタイルから、悪意無きものとはいえ、醜い分断を持ち込むということもあるというのが偽らぬ現実だ。
こうした不幸は悔しくてならないし、その非は東電と政府当局へと向かうべきところではあっても、被災者同士、あるいは支援者や、脱原発陣営を分断するものであってはならないだろう。

そうしたまだら模様、分断の深さゆえ、実は食い物が無くて困窮したというポスト8.15より、不幸な現実があるというのが実態だと思う。

ボクが関わっている〈放射能除染・回復プロジェクト〉にも、熱く原発震災を語る方々から、悪罵を投げかけられる事も多い。
誤解もあるとは思うが、ある種、絶対的な矛盾という領域の問題でもあり、悩ましく思う。

もはや、3.11以前には戻ることのできない、放射線汚染下をどのように生きるのか、という問題は、科学的な視座はもちろんのこと、ただの運動論だけではない、遠大な時間軸を照準とした人類の営みの1つであり、哲学的な命題の領域に関わる問題になっている。

汚染されてしまった広大な土地を放棄しろ、というのは簡単だが、汚染されてしまった土地は福島だけでは無く、日本列島を覆うばかりに広大な土地であることを忘れてはならない。
我々は好むと好まざるに関わらず、ここで生き、恋をし、子を産み、育て、死んでいく。

福島から数1000Kmも離れた畑からでさえ、数10Bq/Kgという単位でのセシウムが検出されるというのが実態なのだ(これらはND:不検出とされることも多い)
3.11以前は0.数Bq/Kgという単位だったと言うから、明らかにこの数10Bq/Kgという単位は異常であることに違いは無く、ここでボクたちは生を営んでいかねばならない。

もちろん、高濃度に汚染された地域に住むこどもたち、若い女性らは真っ先に疎開すべきだし、それらに伴う経費は当然のように補償されるべきだ。
それらと〈放射能除染・回復プロジェクト〉を相矛盾するものとして捉えるようであってはならない。

さて、これに加えて、3.11後の熱い時期を過ぎ、あと数ヶ月も経てば1年を迎えるというこの年の瀬、人の噂も七十五日とばかりに、これらのことは忘れ去られようとしているかのようだ。
こうした記事を上げることにさえ、
‥‥ まだそんなことを言ってるのか、いいかげんにしろ !
‥‥ 政府だって、収束宣言を出したって言うじゃ無いか、終わったのさ、
などと。

3.11に纏わる話しを持ち出すことさえ、タブーであるかのように、顔を背けられ、冷たい表情を返されるのが相場だ。

しかし、恐らくは、内部被曝の問題にしろ、再生エネルギーへの転換の問題にしろ、2012年こそがターニングポイントとして浮上していくことだろうと思っている。
あるいは、現在、東京都と大阪府で進められている「原発国民投票」問題も、2012年に大きく動くだろう。

3.11から始まった問題の全てが年を越し、これを忘却の彼方に捨て置いてしまい、頬被りしてしまうのか、あるいは原発を前提とした社会経済の構造そのものを見直し、未来への展望を切り拓く大きな転換点へと踏み出すのか、その勇気が試される年になっていくのだろうと思う。

遠く離れたドイツや、イタリア、スイスでそれができて、原発震災の当事国がなぜ踏み出せないのか、世界は注視しているだろう。

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