工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」

日本科学未来館・ファサード


昨春、国立民族学博物館で催されたものが巡回してきた企画だが、「日本科学未来館」で開催されているところもまた、梅棹忠夫を総覧するにはふさわしい場所なのかと思った(これについては後述)。

良く知られているように、梅棹は国立民族学博物館の創立に奔走(時の首相への嘆願書も展示されていた)、最初の館長として日本の民俗学をより大衆のものへと定着させるなど、その実践的活動(政治的な?)においては、類種の学者の行動規範を大きく超える人物だった。

ボクが最初に読んだ本は、恐らくは同じ人も多いと思われるが、岩波新書『知的生産の技術』(1969 岩波新書)という知的作業における指南書。ベストセラーだったようだ。

最近でこそ、多くの学者が同様の分野の本を著しているが、当時は学生をはじめとし、知に飢える(今、tiniueru、とタイプしたら、[血に飢える]と変換されてしまい慌てた)人々を魅了したものだった。

今ではこのような教養主義的な人文書を出しても、あれほどの売れ行きにはならないと思う。
ケータイやスマホで読める手軽なものしか、若い人々は手に取らない。

あるいは教養主義そのものへの懐疑も定着している昨今であれば、格好の批判対象であったりするというわけだ。

ちょっと余談が過ぎたが、つまり、梅棹という学者への認識の話しだが、例えば、柳田国男のように民族学の碩学として接近したのではなく、知を修める技法に卓越した人として捉えていた節がある。

その後、文庫化された後に、代表作『文明の生態史観』を読んだが、たいへんおもしろく読んだ記憶はあるものの、「動物生態学」に発すると思われる世界史観はどこか違和感が纏わり付くもので、論壇の評価にもなじめなかったものだ。

ボクは民俗学そのものには「我々はどこから来て、どこに行くのか ‥‥」といった、時代の混迷期であれば、誰しもが抱く素朴な関心対象として、柳田国男などの著作を紐解くところから接近して行った程度だったが、日本というアジアの中にあって唯一近代化を果たした国の依って立つところへの関心はいつも離れがたくあったので、そうした問題意識に示唆を与えてくれるものがあれば、何でも手を出していた時期もあったというわけだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜 ☃ 〜〜〜〜〜〜〜〜

さて、この回顧展、楽しく観覧させていただいた。
戦争を挟み、山登りからはじまり、探検部に所属し、アジア奥深く分け入り、脚で自身の学問的構築を遂げていった。
それらの過程が、フィールドワークに用いた様々な機材とともに、独自に開発した取材メモ、写真などが巧みに掲示されていて、観覧者を飽きさせない構成となっていた。

「知の巨人」とも称される梅棹だが、今から考えれば、没したのが2010年7月(90歳)。史観においてのオポチュニストを裏切ることなく黄泉の世界に旅立てたのは良かったのかもしれない。

何を言わんとするかと言えば、無論、3.11と福島原発震災を見ること無く逝ったことなのだが、
この会場となった「日本科学未来館」では、ノート片手の小中学生がわんさと押しかけ、未来を体験できる様々な実験機材を操作しているのだったが、当然にも「核融合」のコーナーなどもあり、あけすけに未来のエネルギーの核心はここにあり、とばかりのテキストと巧緻な誘導が幅を利かせていていた。

それは福島原発震災、および原子力核エネルギーへの懐疑など微塵も感じさせない構成となっていて、学芸員にそれを問おうとも思ったのだが、返答に窮するだろうことは明らかなので、止めた。

「知の巨人」という位置づけは、どうせメディアから名付けられたものだろうから、さしたる意味は持たないと思うが、その知が歴史を超えた普遍性に果たして耐えられるかどうかは、問うてみる価値はあると思った。

梅棹が京大(当時は京都帝国大学)に入学してから70年ばかり経つが、戦争を挟むその後の彼の学問と人生とは、近代化の道をひたすら駆け抜けてきた日本の姿とまさに相似形であるように思えてならなかった。

*参照
■ 国立民族学博物館 公式サイト
■ 日本科学未来館 対象サイト

上2枚は、日本科学未来館の周囲の点景。前回の写真も同様。
海辺の白い彫刻(?),2枚はだまし絵だね(90度、角度を変えて撮影)

《関連すると思われる記事》

                   
    

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.