工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

2012 ロンドン五輪 狂想曲も終わり、

閉会式も終え

五輪閉会式はさながらロックコンサートの如くだった。開会式の「ヘイ・ジュード」で盛り上げたポール・マッカートニーに対し、今度は巨大スクリーンにジョン・レノンを登場させ「イマジン」が各国語で流れた。

花びらの形をした200本を超える棒状のポールで構成された聖火台が開会式とは逆に少しづつ開き、ついには炎が消えていく様は、これまでの聖火とは異なる深い印象を与えてくれるものだった。
1つの聖火台を構成する200本の炎の棒、それぞれが参加した国、地域を表すものということで、その企みは見事というべきだったかもしれない。花びら様の先端は、たんぽぽの花弁の形状そのままだったようだ。踏まれてもなお、しぶとく野辺に咲き誇るたんぽぽの姿に託したのか。

メディアでは今日もなお、帰国した選手をスタジオに招いての狂想曲がひきも切らず続いているようだ。
しばらくはこの路線で視聴率が稼げるからだね。

大会前から注目されてきた選手はともかくも、本大会で優秀な成績を収めた選手にとり、カメラの前に立つにあたっては複雑な思いが交錯することもあるだろう。

今やスポーツはメディアを抜きには考えられない。ましてや五輪ともなれば世界大的な一大イベントと化し、蜜に吸い寄せられる虫さながらに、欲望とカネの化身の如くに群がってくる。選手たちにとっては、この桎梏とどう向き合い、振る舞うのかは、選手生命にも関わるほどの困難な領域の問題かも知れない。
スポーツをスポーツとして評し、論ずる番組などではなく、ほとんどお笑い系に近いような番組に招かれることが多いだろうし、あるいはニュース系であっても、競技内容に肉薄し、そのパフォーマンスに切り込むほどの内実を持つ番組は皆無に近い。

選手にとっては称賛される場であれば嬉しくないはずは無いが、各局同じような表層をなどるだけの質問の繰り返しへの対応には、ほとほとあほらしくもなってくるのではないだろうか。
気の毒。

中には勘違いし、まだまだ追求したいだろうアスリートとしての未来へ向けての活動、あるいは指導者としての使命を捨て、メディア界隈での棲息を選び、心身ともに磨り減らしていく選手も過去、何度もみている。

何事も一流であることを続けることは困難だ。
五輪での通算メダル獲得数を歴代最多の22に伸ばしたマイケル・フェルプス選手に対し、北島康介選手の3連覇は為らなかったが、誰もこれを責めることはできない。コーチの指導を断り、単独米国での練習に明け暮れたことの結果とする見方は的を射ていないとはいわないが、しかし本質的には彼自身と、周囲の指導者の問題であり、メディアや観衆があれこれ評すべきでもないだろう。
水泳界史上、過去2大会の戦績は大文字で刻印されべき選手だろうし、この度の400mメドレーリレーでの奮闘は真に価値あるものだった。

いくつかの競技について

陸上100m/ウサイン・ボルト

「伝説の男になる」と宣言し、100m、200m、400mリレーの3つを見事に2連覇したウサイン・ボルトは「伝説になる」かどうかは歴史が判定することなのでともかくも、五輪新記録の達成を含め、実に見事な走りっぷりだったというべきだろう。
彼の広告業界からの年収は15億を超えると言われる。
これも現代スポーツの何たるかを象徴する数値だが、まさにメディアあってのスーパーアスリートの姿だ。

ヒジャブを着けたムスリム女性の初参加

あまり熱心に観戦していなかったボクだが、不覚にも涙腺を緩ませる競技があった。
女子柔道78Kgクラスに出場したサウジアラビアの選手(ウォジダン・シャハルハ:17歳)の試合。わずかに数分の試合時間で敗れたが、頭を覆うヒジャブの印象とともに、このロンドン五輪の画期を為す、ムスリム女性の初の出場だった。

クーベルタン男爵の提唱によりはじまった近代五輪だったが、元々実に差別的な理念の下で始まったことは、知っておいても良いだろう。

五輪の性格としては貴族主義でエリート主義。さらには五輪の英雄とは成年男子を対象としたものであり、女性の参加は認められないとされていた。曰く「女性は公的競技に参加するべきでは無く、勝利者に冠を授けることであるべき」と。

しかし幾多の大会と、社会の変化は、彼の思考を超え、性差、人種の壁、宗教の壁を越え、発展してきた。いまや女性と黒人のいない五輪など考えられもしない。
そしてロンドンではヒジャブを被ったムスリム女性の参加があり、スポーツ最大のイベントにおいても、選手の力、社会の力によるアナクロニズム的な思考は排除されつつあると言えるだろう。
サウジアラビアの他にも、カタール、ブルネイからの女子選手の参加があった。

無気力 バトミントン

さて、その他、印象的だったのはバドミントンの「無気力試合」だね。
あのみえみえの脱力試合運びは興ざめどころか、大会そのものを侮辱するに等しい振る舞いだった。処分を受けた中国ペアの于洋選手は、Blogで「さよなら、大好きなバドミントン」と引退を表明したらしい。これは選手の責任ではなく、その国の競技団、コーチ陣の問題だ。
五輪精神とは対極の、一国のメダル獲得数の争いへの狂奔である。

ドーピング問題

そして取り上げねばならないのがドーピングだ。
競泳女子400m個人メドレー、世界新記録で制した葉詩文選手は同種目男子優勝のライアン・ロクテ選手の最終ラップを上回ったところから、このドーピングの疑いを掛けられたわけだが、藪の中、というより、検査をパスしていることからすれば、疑惑は的外れというべきだろう。
恐るべき16歳。

一方、開会前の段階で禁止薬物が検出されたとして11選手が追放処分を受けている。
女子サッカー決勝戦、日本選手のシュートをことごとく弾いた、あの美人で話題になった米国正GKのホープ・ソロが禁止薬物検査で陽性反応を示したため、警告処分にされていた(軽い処分なので出場はできた)。

陸上、水泳などでは0.01秒を争う状況になっているのが今日のタイム争い。
コーチ、あるいは選手たちは禁止薬物に依存する誘惑に駆られるのも、現代五輪の宿痾というべき事柄なのかも知れない。

いきつくところは、金メダル獲得のための、いわゆるサイボーグ人間への欲望であるのだろうか。REUTERSからはKate Kelland記者による次のような記事がきていた(REUTERS:金メダルか死か、「遺伝子組み換えアスリート」の実現性

こんな異様な話題では気が滅入ってもくるが、下世話で興味深い話しも取り上げておこうか(スポーツ前のセックスは悪影響か、ロンドン五輪でも話題に

事実、選手村には、大量の避妊具が置かれてるようで、過去、アスリートたちの選手村でのカップルにより生まれた子が、五輪選手として活躍しているというまことしやかな話もあったりするのである。

メディアの異様な狂奔

最後に、メディアの報じ方についても触れておかねばならないだろう。
ボクは一部の競技を除き、リアルタイムでの観戦は無く、ニュース枠でチェックする程度だった。
そのほとんどはNHK総合とNHK BSだったが、ニュース枠とは言え、冒頭から全体の1/3〜1/2ほどの費やしての五輪報道、いや報道番組とは異なる位相で、まるで特集番組に切り替わってしまったかの如く。
その影で重要な時事ニュースがいくつも飛ばされたことだろう。
NHK窓口にはボクも含め多くのクレームが寄せられたのは疑いないところだが、数日経過し、少し改善を見た感じはあったものの、ほとんど異様としか形容することのできないひどい17日間だった。

中には絶叫アナウンサーもいたりで、実に不愉快な観戦を強いられてしまった。
NHKの五輪放送では「前畑ガンバレ !」というアナウンスが良く知られているが、自国選手の活躍へのマイクが割れんばかりの絶叫には、まるでタブロイドスポーツ紙のドデカフォントをマイクに向けたかのようで、椅子から転げ落ちんばかりの悪印象だった。

英国本国で観戦していた人のTwitterで知ったのだが、BBCの放送は、とても淡々と冷静に分かりやすく放送していて、NHKのそれと較べ、あまりの印象の違いにあっけにとられていたようだ。
〈成熟と、あまりの未熟〉という彼我の差は、今後何100年たってもその溝は埋められはしないのだろう。

個人の思い入れ、アナウンサーとしての基本的資質、視聴者へのサービスの何たるかをまるで勘違いしてしまう、等々は様々な視点から評さるべき事柄だが、やはり「近代」をどのように受容し、どのように自覚し、振る舞い、実践するのか、という領域に関わる問題なのかも知れない。
こうした卑近なところで、近代化を然るべく果たしつつ歩む市民社会と、非近代のままにいびつに「成熟」しちゃった国民国家の在り様が浮き彫りにされてくる。

かくして五輪狂想曲は、スポーツ選手の躍動と美と感動を、それ自体として賞揚する人々もいれば、一方単なるナショナリスティックな欲情のツールとして自己陶酔と、同調圧力を振りまく人々も多かったというのが、4年ごとに繰り返されるデジャヴな話しとは言え、偽らざる印象だった。

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