工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

安保法制をめぐる、この熱い夏の光景(あの日から70年目の夏を迎えて その3)

安倍「70年談話」の狙いとは

「70年談話」とは、いったいどんな意味を持つのか、若者世代を中心に疑問も多いだろうと思うし、まるで関心を持たないという人もいるだろう。

その国の依って立つところを確認するということは、国民国家という近代の国家概念においては必要とされるもの。
これは国家の側からはもちろん、市民の側(私は国民という言葉は目的的である以外、安易には使わず、市民という用語を使います)からの要請でもあったりする。

これが戦勝国であったり、他国からの支配を脱し、独立を勝ち取った国であればなおのこと。
国の正統性をここぞとばかりに確認させようと試みる。
これは国民国家の政府による支配、ガバナンスの最大の課題であるからだ。

日本のこの「70年談話」も同じく、先の戦争から70年を経、敗戦の日(終戦記念日)に国内外にメッセージを発するというものだ。

ただ、安倍首相からはこれまで、先の戦争における日本軍の中国大陸への侵略行為を認めず、逆に美化するような発言が繰り返され、首相の立場でにおいても、A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝するなど、中国、韓国、北朝鮮、あるいは米国政府筋をはじめ、海外から大きな懸念を呼び、また危険視されてもきた。

本論考の冒頭で「70年談話」の必要性など無いとしたが、安倍首相のそうした信条、信念というものがあまりにも自明であるため、現状においてさえ、かつてないほどの緊張関係にある北東アジア情勢に、取り返しのつかないメッセージ内容にもなりかねず、止めてもらいたいと考えるところからの不要論だ。

しかし、早々と、関連する有識者会議を招集するなど、準備に怠りないようだし、数日前にはこの有識者懇談会からの報告も公表されている。(報告書:20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会

これをうけ、首相からは14日に発表されることになっている。

このところ、その内容に関する報道も相次いでいる。
曰く「安倍談話の原案「おわび」盛らず」(8月9日 朝日)
一方、10日、NHKの報道では「歴代内閣の立場引き継ぐのは当然」として「「お詫び」や「侵略」などのすべての文言が明記されている」とされ、食い違いを見せている。(NHK ニュース

そして昨11日の朝日では「おわび」言及へ、ときていて、少し安堵させられている。(8月11日朝日新聞

報道機関のこうしたニュースソースは官邸からのリークで記事を作っているわけで、確定的な根拠があるわけでも無く、実際のところは14日当日になってみなければ分からない。

安倍首相の基本的な政治スローガンは「戦後レジームからの脱却」にあることは、何度も確認してきたところだが、広く知られているように、安倍首相は、村山談話も、河野談話も受け入れがたいとする確信犯であることは明かであり、一年生議員から首相に登りつめた現在に至るまで一貫した主張であり、これは隠しようもない。

「ポツダム宣言」もきちんと読まずして[1] 、「戦後レジームからの脱却」を解く安倍首相であれば、必ずしも論理立てての批判と言うより、A級戦犯として訴追された、祖父岸信介への肉親ならではの深い親愛の情から帰結された、連合軍憎し、戦後の世界秩序憎し、の感情的回路から導き出されたものであることは容易に想像できる話である。

しかしこれはどう繕っても戦後国際的秩序への怨念的な信条であり、日本の人々のみならず、世界から強い疑いの目と、怒りの嵐が殺到する類のものであろう。
事実、過去にも米国有力新聞をはじめ、世界のメディアから批判に曝されてきている。

日本国内では、個人の信念であれば、無論批判はされようが、それは自由なのでさしあたって構わない(ドイツでは反ナチス法の下「ナチス犯罪追求センター」が設置され、それらへの容認は違法な信条として責めを負うはずだが)。

だが彼は一政治家を超え、日本の首相という立場であり、日本を代表しての談話であれば、安易に語ることは許されようも無い。

だからこそ、有識者懇談会を招集し、税金を投入し、報告書を求めるようなことをしている。
安倍首相自身は、この報告書に縛られずに、自分の言葉で語る、と既に煙幕を張っていたりするのだが、しかし有識者懇メンバーからも、ちゃんと読んで欲しい!と釘を刺されてもいるようなので、お仲間達が取りまとめた報告書に正反対の内容にするわけにもいくまい。

つまり、個人の信条は押し隠しても、2015年8月、戦後70年における日本国の首相の立場として、どう表現するかの問題であるわけだ。
したがって、安倍首相にとって見れば、こんな「70年談話」も所詮茶番であるに過ぎない。

しかし、個人の信条こそ問われねばならないのが本筋ではあるにしても、ここは国際的な政治問題化している限りにおいて、個人の信条は胸に納め、日本国としての誇りある立場から、戦争への謝罪を基礎とする姿勢を、品格ある表現として打ち出し、戦後における北東アジアでの名誉ある働きかけを確認しつつ、共存共栄の道を歩む決意を示してもらいたいということになる。

ただこれに関しては何度も村山・小泉両談話を「全体として受け継ぐ」とだけ語り、表現や文言は縛られないとしていて、それだけに安倍首相の個人的所感が色濃く反映した内容になるだろうことも容易に想像でき、困惑させられる。

安倍首相には抑制を働かせるはずの知性というものが欠如しているためか、その全能感にあふれた振る舞いは、周囲の助言などどこ吹く風とばかりに、オレ様流の独善的な思いに満ちたものになるとも言われている。

先の大戦への誤った評価をベースとし、戦後日本が歩んできた平和外交を基本とした経済優先の道を嫌悪し、GDP世界第二位の地位を日本から奪った中国への異常とも思える感情剥き出しの敵意に基づく、外交戦略の稚拙な展開(対中、対韓、対北朝鮮外交に何一つ有効な手立てが打てずに、踏み出せないままでいる)。

あるいは北朝鮮外交のもっともホットなテーマである拉致問題に関しては、実質的な大使館機能を有する総連への徹底的な政治弾圧に観られるように、無為無策というよりは、解決をさせないためではないのかとさえ思えるような諸策は、拉致被害者家族を手玉に取る、よりあくどい拉致問題の政治利用と考えなければ理解できないものがある。

こうした北東アジアにおける安倍首相の外交戦略の基本的スタンスを考える時、15年戦争に見事なまでに敗北を喫し、その後、戦後日本が国際社会に復帰する過程で打ち固めてきた、戦争への徹底した反省を基にした平和戦略、民主主義、立憲主義の確立というものを嫌悪し、否定する内容のものとして展開していることがただちに見えてくる。

これは戦後世界における日本の世界への約束を反故にし、裏切るものとなってしまう。
このことは当然にも日本の立場を危うくするものとして作用するだろう。

「謝罪」は卑屈な精神では無く、未来を拓くマジック

戦後の敗戦国の振る舞いにおいて、日本の姿勢とよく比較されるのがドイツ。

周知の通り、今やドイツは経済大国として発展し、EUにおいては機関車的な立場にあり、東アジアにおける日本のポジションと似通ったところがある大国だ。

ただ、ドイツはEUを経済分野のみならず、クリミヤ半島を巡るロシアとの争いへは最も影響力を及ぼすことのできる国として見なされ、事実そのように振る舞い、EUを代表する国として広く深く信頼を集めている。

他方、敗戦国として似通った立場の国、日本はどうだろう。
経済的には中国に追い越されつつあるとは言え、日本はまだまだファンダメンタルズにおいては世界屈指の経済大国。
しかし残念だが、取り巻く周辺諸国からの信頼という点ではドイツの足下にも及ばぬ位置で、近隣諸国との緊張関係が高じる一方である。

無論、相手国のある話ではあるけど、それにしても、安倍政権以降、外交関係が完全に破綻している情勢は異様としか表現のしようが無い。

今年2015年は、韓国との国交正常化50年という節目の年だった。
これを祝う式典は双方の国で行われたが、とてもジミな開催で、意気消沈するほどの内実だったようだ。
それどころか、日本国内では相も変わらず「嫌韓」が叫ばれ、在特というあからさまな右翼組織が全国いたるところでヘイトデモを展開し、韓国国内では「反日」がネット社会では支配的だ。

さらには「慰安婦」を巡っては朝日新聞・吉田証言をめぐる記事の削除を機とした、猛烈な朝日パッシングはメディアを覆い尽くし、関係した記者は大学を追われ、ネット上ではもちろんのこと、街頭でもテロに遭遇するという、果たしてこの日本は民主主義国家では無かったのかと、信じがたいほどの怖ろしい社会が到来していることに戦慄を覚えるほどにまで劣化を極めている。

取り上げた記事が根拠薄弱であったこと、またそれが判明した後も朝日は修正に取り掛からなかったなどの瑕疵は認めざるをえないにしても、様々な慰安婦本人の証言、軍部内の文書、中曽根康弘本人の文書[2]
などにも明らかなように「慰安婦」そのものの実態、戦時性暴力の非道さは覆るものではあるはずもなく、朝日の瑕疵を奇貨とした「慰安婦はでっち上げ」、とする読売、産経、他などの勝ち誇った薄汚い精神には怒りを超え、深い哀しみを覚えるだけである。

しかし、何故このような真実に向き合うことを忌避するのだろうか。
いくつかの理由が考えられる。

  • 直接関わった軍人、軍属らは、先の大戦の実態をほとんど家族を含めた他者に語ろうとせず過ごし、多くの人々は鬼籍へと入って行った。
    これは恥部は曝したくない、とする人間の自己保身からのものだろう。
    また語り継ごうとする稀少な人へは徹底したパッシングを掛ける(日本全体のムラ社会化)
  • メディアの関心が向かない
    メディアもまた日本のムラ社会の主要な一翼を担っているところがあり、スポンサー、読者の反発をくらうような記事は避けたがる傾向が強い
  • 日本の反戦平和運動の本質的欠陥
    戦争への視座は、ヒロシマ、ナガサキを典型とする日本国土が蹂躙された悲惨さを語るところから説き起こすもがほとんどで、加害については徹底して避けてきた。
    良く知られるように、日本人の犠牲者は310万人という膨大なものだったわけだが、アジア大陸、および太平洋諸国では、少なく見積もっても1,500〜1,800万人の犠牲者を出したと言われている。

    戦争において常に語られるのは310万人の方ばかりで、日本人の銃剣、銃弾に散った1,500〜1,800万人については押し黙ったまま。

    これでは真の反戦平和運動にはなり得ないのは当たり前。
    島国という特異な国境を有する日本ならではの独善性に、平和勢力もまた、侵されてると自戒すべきだろう。
    私のようなこうした視座は「自虐史観」と言われるわけだが、事実に向き合うこと無く、歴史を語ることほど愚かなことは無い。

良く知られたドイツ・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ敗戦40周年記念式典(1985年)における「荒野の40年」と題した演説では以下のように語られた。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」
「我々は若かろうが年をとっていようが、みな過去を受け入れなければならない」

ナチス・ドイツの過去をありのまま見据える勇気を持とうと訴え、イスラエルはこれを「歴史的な事件」として高く評価するなど、世界に大きな反響をもたらし、その後のドイツ統合での「強いドイツ」復活への懸念へも冷静に認めつつ、世界からの信頼を取り戻す強いメッセージになっていく。

(もう少し続けます)

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❖ 脚注
  1. 衆院、安保法制特別委において、日本の植民地支配に関する安倍首相と野党の間で、ポツダム宣言への認識を問うたのに対し「私もつまびらかに承知をしているわけではございません」と答弁し、大きな反響を呼んだ。(2015/05/20)

    安倍首相の最大の政治テーマは「戦後レジームからの脱却」であったはずだが、戦後レジームとされるものの嚆矢は、まさにこの「ポツダム宣言」であったわけで、なにをか況んや、なのである。 []
  2. 『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道 []
                   
    

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