工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

鉋掛けという工程について(その2)

切削工程の合理的な思考として手鉋を考える

家具制作工程において、手鉋を掛けて仕上げると言うことを、何かストイックなニュアンスで考え勝ちになるのは、現代社会における産業技術水準からすれば、あまりにも感性的なアプローチに過ぎるのではと思われるかも知れませんが、その謂は半分正しく、残り半分は間違ってるとまで言わずとも、ぜひ思いを理解してもらいたいものです。

けだし、この感性的なアプローチというのは、現代社会において、木工などと言う酔狂な仕事にうつつを抜かしている私たちに取り、欠かせぬ思考スタイルであるのも確かなのですから・・・。

しかし、木工職人のストイックな精神に支えられた鉋掛け工程という考え方は、前回の記述で述べてきたように、事柄の半分を言い当てているに過ぎません。

木材加工工程における鉋掛けというのは、もっと本質的な意味を持ちます。

あくまでも私見ですが、機械万能の時代にあり、手鉋による仕上げ加工の手法の特徴を、仮に以下のように定義づけてみたいと思います。

  1. 切削工程における有能な道具としての評価
  2. 被加工物としての木材(有機素材ならではの物理的、美的な素材)を活かす切削の道具
  3. 木材加工における精度のファジーさ(有機素材ならではの特徴)に機敏に対応する切削の道具

以下、少し詳しく解説を試みます(数回にわたるかもしれません)。

切削工程における有能な道具としての評価

かなり昔のことになりますが、ある指物師の工房を訪ねた際、驚かされたことがあります。
その工房に設置された機械はボール盤くらいで、後は電動丸鋸がある程度。
他には何も持たない。

板を作るにも、ひたすら手鉋を駆使して作っていくという人でした。

また著名な指物師の講演で聴かされた話ですが、先代の父親の時代も上述した指物師同様、約1.5×2寸の大きさの6分板を手鉋だけで削り上げ、定寸の板を作り、背丈ほどの高さまで積み上げていた光景など、まさに前近代的制作工程が、ほんの少し前の時代まで、当たり前のように続いていたことに、あらためて思い致したものでした。

現代社会では、あり得ないような木へのアプローチですが、驚くだけで事済ますわけにもいかず、そこからはいくつかの示唆を感じ取ることができるように思います。

あるいはまた、卑近な事例を上げ、説明する事も可能です。
私のところの手押鉋盤の能力は305mmです。
それを越える素材はどうするのか。

近隣には、400mm、500mmといった能力を持つ手押鉋盤が設置された工房もあり、借りることもできます。
しかし、わざわざ借りることも無く、305mmの能力を駆使し、それを越える部分はハンドプレナー(電動鉋)、および手鉋で削り上げます。

あるいは前回の記事に上げたCLAROなどは2寸を越える厚みもあり、とても機械に掛けられる重量では無いため、最初から電動鉋で荒く平滑を出し、その後はひたすら手鉋で削り上げるのです。平滑性を意識しつつ、数丁の手鉋を駆使し、最後の仕上げまでもっていく。

こんな工程はサンディングマシーンなどで代替できるわけもなく、手鉋の有能なパワーを引き出し、削り上げるということになります。
このような工程は、ストイックな精神だけで成しうるというものではなく、いかに合理的な切削方法であるかを自覚したところでの、職人の技能がもたらす力ならではのことなのです。

鉋イラスト

また、この能力ということにおいて言及しておかねばならないこととして、この手鉋が台鉋であるというその構造が有する能力に関する事柄があります。

通常、平鉋で木を削る場合にあっても、平滑性を産み出し、これを維持しつつ、削り上げるということを可能ならしめるのは、ひとえに台鉋であることに拠るからです。

その平鉋の台と、刃の出方の設定により、任意の厚みで削ることが可能になるわけですが、被切削物の凸部分に刃があたり、削れ、凹部分には刃があたらず、やがてはそれら凸凹は均一化され、平滑に仕上がっていくのです。

無論、一から手鉋で削り上げるのと、電動鉋で荒削りした後に手鉋を駆使するのとでは、明らかに意味は異なりますが、本件のテーマの限りにおいては、十分説明の対象たり得ることです。

また、この手鉋で削るという意味には、さら重要なポイントがあるように思います。
平滑に、望む寸法に仕上げるという、手鉋の能力、それを引き出す作業者の技能。この作業工程は、まさしく作業者と木との対話が欠かせないという問題が潜むのです。

つまり、その木の特徴を良く知り、また個別具体的に、その板の細胞配列を常に子細に見抜き、あるいは感じ取り、それらの視覚、あるいは鉋から伝わる手の触覚を頭脳で分析し、その結果を手鉋を捌く腕へと伝達させ、極力、順目(ならいめ=逆目の反対)に削るように操作しなかればならないのです。
時には運行方向に任意の角度をもたせながら削ることもあれば、材料そのものを上下反対にセットし直したりと、最善の結果をもたらすように、働きかけるわけです。

いわば常に木との対話が欠かせぬ作業工程になるわけですが、この工程があればこそ、その固有の木を作品としての完成形から演繹させつつ、どのように配置させ、物理的堅牢性を確保させるのか、あるいは目的の造形に適った美質を産み出させるのか、そうしたことが、この一連の削り作業の工程から判読されていくのです。

鉋イラスト

そうしてみれば、私たちのように強力な加工機械と、様々な電動工具に囲まれた環境の下で木工に勤しんでいる者と、前近代的手法で手鉋に依存せざるを得なかった指物師とでは、明らかに木への向かい方が異なるというのは、残念ながら事実でしょう。

これは、モノ作りの世界にあっても、その時代の科学技術、産業環境に依拠せざるを得ないことから当然の事柄であるためです。

ただ、機械化万能の時代に棹さすような思考には、いささかのためらいとともに、技術の進化の影で失われてしまう大切な技法を、どう考えていくのか、捨ててしまうのか、あるいはそのエッセンスを新たな環境の下で蘇らせていくのか。
これは家具職人が鉋に留まらず、様々な技能、技法を、日々の仕事の中でどのように自覚的に捉えていくのかに関わることであり、普遍的な課題でもあるのです。

また、明らかなこととして言えるのは、いかに機械化された環境にあっても、機械化以前の技法の存在を良く知ることは、懐古的に懐かしむというのではなく、木を対象とした仕事において、より高度なアプローチを可能とさせ、自らの仕事において、さらに良い結果をもたらすだろうということなのです。

(続きます)

hr

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 文政期の頭書増補町屋雛形には、「寄せ蟻」仕楔があるけど
    大工の世界。
    寄せは「よせ、与瀬」であんまり言いイメージではなく
    送り、引きのほうが語感、アクションのすべり締まる
    言葉のクオリアもよいと思われ。
    よせやめろ 止せではこまるから「送り、贈り、奥理」にしたい。
    「与瀬」地名は相模湖ができる前の、意味深な余瀬「夜」の世界でしたょ。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.