工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

相模原・障害者施設における惨殺事件の衝撃(その3)

この事件を考える時、いくつものことで胸のざわつきを覚えるわけだが、犠牲者の名前が公表されないことの違和感も間違いなくその1つ。
下の2つは、これに関わる私のTwitterポスト。

犠牲者の匿名発表への違和

140文字の制約の中で伝えられることには限りがあるので、少しこちらで書いてみたい。

人の生き死にというのは、その人の人生の一大事である。
また、ある犯罪での犠牲者が、どんな事情で、どんな最期を迎えようと、その事件に報道する価値があるとするれば、その報道内容には犠牲者の人定が必須であることも異論を挟む余地は無い(はずだ)。

しかし、今回は全く違っていて、警察発表においては19名の犠牲者の氏名は誰一人として明かされず、あくまでも19名という数値のみだった。

私のTwitterポストは、こうしたことへの強い違和を糺すものだったが、死してなお「名無しの19名」として、生前の障害者差別に加え、再び人としての尊厳を奪われ、2度と回復を望めないというところに、日本社会におけるこの障害者が置かれた困難な立場が象徴されているように思ったものだ。

人定がなされ、はじめて19名、一人一人の生きた証しが周囲の様々なところから語られ、そこには健常者と変わらぬ喜怒哀楽があり、いや、とんでもない、健常者には体験することのない、波乱の人生も含む、ひとりひとりの愛おしい「物語」があり、それを囲む人々の苦難と、喜びもあったはずで、殺害という思いもしない最期であっても、犠牲となった障害者と共に歩んできた道筋を社会が共有することで、本人への本当の意味での追悼になり得ただろうし、共に歩んできた家族の苦労も偲ばれるというものでは無いだろうか。


警察が匿名とした理由として、犠牲者家族のそっとしておいて欲しいとする意向を汲んだものと伝えられていて、そのことへの理解も必要だと思うが、しかし、犠牲者本人の思いはどうたったろうか、と、叶わぬ疑問を投げかけたくもなるし、それはやはりおかしいだろうと言っておかねばならない。

死者から答えを聞く術は無いのだが、死してなお、尊厳を奪われ続けることに納得する障害者はいないだろう。

それらを阻むのは、まずもって共に歩んできた家族ということになるのだろうけど、それは「世間体」という、意外とやっかいなエセ地域共同体からの見えにくい差別の眼差しから半ば強いられたことへの対応によるもの。

少し強い言い方を許してもらえば、この家族と地域共同体(隣組って奴だね)のいわば〈共同正犯〉という関係にあると言ってしまいたくなる(それだけにやっかいなのだよ)

家族の苦悩を語った記事から

■ 「犠牲の姉「一生懸命生きてた」 相模原殺傷、無念の遺族」

■ 「差別や偏見に苦しんだ、それでも 相模原殺傷、匿名葛藤」

さらに考えていくと「障害者はいないほうがいい」とした容疑者の犯行動機であるが、この怖ろしいまでの差別意識の呟きは彼固有の特異なものなのかと言えば、決してそうではなく、口に出さないまでも多くの人が共通して胸の底に押し隠している暗い想念なのではとの認識に達する。

そうした表層には表れない障害者への差別感情があるからこそ、家族はそれを明かされることへの強い忌避感があるのだろう。

先のBlogでは、私の近所にはそうした障害者を視ることは無い、としたけれど、それはたぶん、いたとしても、隠され、施設に入居させられ、見えなくされているに過ぎない。

この4月より「障害者差別解消法」が施行されているが[1] 、どれだけ認知されているのだろうか。
これは国連の「障害者の権利に関する条約」の批准にともなう国内法整備の一環だ。

前回記事の《相模原市障害者大量殺傷事件に対する意見(DPI日本会議)》にあるように、社会における障害者の在り様は「排除的な社会ではなく、インクルーシブな社会への転換」へと向かうというのが世界的な考え方になっていて、日本でも「障害者権利条約」が2014年に批准され、「共生社会」へと向かうことが法制化されつつあったところだが、先進諸国の中にあって、日本が最も遅れた分野だと言われていた。

その実態を視れば、地域社会に共に暮らすという環境からはほど遠く、ほとんど全ての障害者が施設へと追いやられ、多くの場合、そこで最期を迎えるという。

犯行のターゲットにされた「津久井やまゆり園」でも、地域に溶け込み、日々の施設外への散歩や、季節季節のイベントでの共同開催など、開所当時、忌避されていたところから、時間を掛け、少しずつ、共に生きることの大切さの理解が拡がりつつあったと言われているが、入所者の中には家族も含め、誰一人として訪ね来る人はいないというケースもあると聞く。

まさに幽閉である。

「障害者の権利に関する条約」は、そうした施設への隔離を基本とする施策から、地域において住民と共に暮らすことを基本としていることを考えれば、気の遠くなるほどに、日本のそれは遅れている。

そうした旧態依然とした障害者を巡る環境があるからこそ、「障害者はいないほうがいい」との妄言が吐かれ、表面上は「間違っている」とされつも「社会的コストをそこにばかり掛けるのは、やはりおかしい」と言ったような同調者も現れ、本人もまたそこをベースに、自分は「善行」を行っていると、ある種のヒーロー気分でいるというのが、検察への押送の際の、不気味な笑いに繋がっているというわけである。

容疑者固有のおぞましい論理の飛躍や「狂気」として解読されるだけでは理解することの困難な、社会の底に汚泥として積もり積もっている、おぞましいほどの差別感情をナイフの一刺しで地表へと引きずり出して見せてしまったものと言えるのかも知れない。

容疑者の犯行へと及ぶ背景は、彼自身の衆院議長への上申書(手紙)から多くのことが読み取ることができるが「障害者なんていなくなればいい」「障害者には税金がかかる」とする障害者排除の論理は、たぶんこうして地べたに張り付いた日本社会を投影するものと考えるのは、飛躍に過ぎるだろうか。

しかし一方、地べたでは無く、教育や行政を司る、立派な御仁からはもっともっとすさまじいまでの妄言が飛び交っているのが日本社会でもあることに気づくのは難しくは無い。


この犯行の少し前、新聞を賑わせた「障害児出産抑制」の舌禍もその1つ。
茨城の教育委員(東京・銀座の日動画廊副社長でもある長谷川智恵子氏)は「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」と発言。後にこれは撤回されたようだが、教育問題を語る、県の総合教育会議という公式の場での発言としてはなかなか香ばしくも、おぞましい妄言ではある。

しかし、しかし、その最たるものとして記憶に留めるのが石原慎太郎氏の府中療育センターを視察しての感想だろう。(1999年9月17日、発言当時、東京都知事)
「ああいう人ってのは人格があるのかね」
「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」

(参照:朝日新聞。切り抜き

これは、猪瀨、桝添と、政治とカネをめぐる問題で辞任に追い込まれたふたりの都知事に較べても、よほど都知事としての資質を問われても不思議ではない妄言だろうと思うが、しかしふたりの知事の時のように、メディアからは一部の批判を除き、辞任要求で追い詰められることはついに無かった。

それほどまでに、この種の妄言は社会的許容度の閾値(しきいち)が低い証しであるのかもしれない

この極右差別主義者でならす石原慎太郎氏(海外紙「英エコノミスト誌などでは〈old rogue of the Japanese right〉(日本右翼のならず者)と呼ばれている)を4期13年にわたり都知事の席に座らせたのが、東京都民であったことを考えれば、日本社会の土壌における障害者差別の根深さを思い知る。

極右で世界に名を轟かす石原慎太郎がなぜメディアから批判されないのかはとても不思議ではあるのだが、文壇タブーに守られているとの話もある。しかしここでは本旨では無いので書かない

これら妄言には、ナチスによる優生学思想と同根の障害者差別と、社会的排除の論理が透けて見えるわけだが、こうした社会的影響力のある著名人による妄言は、これを拡大再生産させるものとして機能し、陰に日向にこれに喝采を送るといった光景もあるやに聴く。(同じ敗戦国である、ドイツ国内で掛かる妄言を吐けば、ただちに法的な制裁を受けることは良く知られている)

辺見庸「すべての人間は障害者である」

ところで、この「障害者」と「健常者」、2つの間を裁断することの本質的な危うさを指摘するのが辺見庸氏の「すべての人間は障害者である」というインタビュー記事。(事件前の本年2月に上がった記事)
「すべての人間は障害者である。」

彼自身、脳梗塞を患い、いわば障害者としての人生を歩むところから紡ぎだされてきた言葉の数々だろう(宮城県石巻出身の小説家であるとともに、詩人であり、元共同通信社の記者を出自とするジャーナリストとしての眼)

数日前、共同通信から各地方紙へと配信された記事「誰が誰をなぜ殺したのか」は、時代相と照合させる形で、この犯行を読み解く試みがある。

記事の画像
「誰が誰をなぜ殺したのか」(Twitterから重掲)
 画像 ①
 画像 ②
 画像 ③

辺見庸ほどにビビットな対応までいかずとも、「世に必要とされる人々」と「社会のお荷物とされる人々」の隔絶を途方も無いほどの距離とし、この分断に生死の境を持ち込むことの不条理は誰にも感じ取れる事柄だと思う。

上に上げた犠牲者の家族の思いにもあった通り、知的障害者は、ある種の無垢の存在であるということとか、特有の才能を伸ばす環境を与えれば、トンデモ無い芸術的行為を果たすことは良く知られているけれど(山下清や草間彌生)、
日本社会においても、知的障害者は古来からある種の「まれびと」として崇められる存在でもあったのだが、近代社会の定着、合理主義が支配する社会とともに、忌むべき人として隠されるべき存在として、今日にいたっている。

欧州など先進地域では、この社会から幽閉されてしまった存在を、地域社会で包摂し、共に生きようという考え方が定着しつつあり、国連においても世界に呼びかけてきたところだが、日本でもやっとこれを批准しこれに対応するための法制が整備されつつある。

今度の事件が、この障がい者問題のメインストリーム(歴史の大きな流れ)に逆らうものとして機能するようであれば、この容疑者に日本社会は敗北するということになるだろう。

本件の記事の冒頭に、監視カメラを増強するといった防犯対策でこの問題に対処しようとする行政指導への疑念を語ったわけだが、本件事案への対応如何は、優れて日本社会の成熟度を示す試験紙だろうと思っている。

私としても、これを機に、関係諸団体、当事者から発せられる命の叫びを聴き取り、受け止め、学んでいきたいと思っている。

犯罪をほのめかした人物については、GPSを埋め込め

最後に、この犯行の直後に飛び出した、参議院副議長まで務められた、ある古老政治家の言葉を取り上げて終わりにしたい。

事柄の本質を何も分かっていないばかりか、これを奇貨として人権抑圧社会へと誘おうと考えているというので、のけぞってしまった。

「私どもも法律をきちんと作って、犯罪をほのめかした、主張した人物については、GPSを埋め込むようなこと。何がいいのかもちろん、これから議論すべきだと思いますけれども」(山東昭子元参議院副議長)(YouTube

この事件を受け、「措置入院」のあり方が問われているようで、歪曲されかねない方向性の議論が始まっているようだが、赤絨毯の上ではこんなトンデモ無いことが飛び交っているかと思うと、とても心が重いが、それもまた日本社会であり、その隅っこで生き存えている私もここから逃れることはできない。

バリバラ

参考までに、本事件を取り上げた NHK Eテレ『バリバラ』「障害者殺傷事件を考える」 (2016年08月07日放映)を貼り付ける。

もう一度言おう
「障害者を殺すな」
「障害者は私たちと供に、生きる権利がある」
「ナチスの優生学思想は全くの誤りである」

《関連すると思われる記事》

♦ 脚注
  1. 内閣府:障害を理由とする差別の解消の推進 []
                   
    

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