工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

余談:センチメントな旅・牛窓

牛窓の海、手前は前島、後ろに小豆島、右上に屋島

牛窓の海、手前は前島、後ろに小豆島、右上に屋島


今回の旅に先立ち、瀨戸内に面した小さな港町、牛窓に1泊した。
ここは芸術祭の催しがあったわけではないが、私個人の感傷的な思いが残る場所で、半世紀を超えての訪問だった。

当時、ゼネコン社員だった父親の仕事に伴い、4年ほどの期間、家族5人がこの牛窓に居留した。

瀨戸内の港町の思い出ははるかかなたではあったが、車で乗り入れれば、当然にも街並みは大きく変貌していたのだが、一歩路地に足を踏み入れればその頃の家並みは残っており、毎日のように駆け抜けた往時の面影を追い、一気にセンチメントな気分に支配されてしまった。

当時この港町は小さな漁港で造船所もいくつかあったが、今は木造の造船所は無く、辺り一帯はヨットハーバーに変わり、ちょっとしたリゾートの港町にイメージを変えていた。

海に目をやれば、確かに数艇のヨットが白い帆を上げプカプカと浮かんでいる。

丘に登れば当時もオリーブ畑が拡がっていたが、これは今も変わらない。
オリーブと言えば小豆島が有名だが、この牛窓でもかなり古くから栽培していた。
ただ今では純然たるオリーブ栽培というよりも観光資源としてのものに転換しているようだった。

当時、3つ年長の兄はオリーブの実を潰し、学帽に塗りつけ、テカらせ、粋がっていたものだ。


記憶を辿れば・・・、
子供の遊びと言えば、かくれんぼうだったり、ビー玉、コマ回し、メンコなどといったごくありふれたものだが、海辺だったことから、夕餉の準備に海に釣りざをを垂らすのも日課だった。
その頃の海は透明度が高く、水中の様子が手に取るように掴め、小さな少年でもそこに釣り糸を下ろせば小さな雑魚であれば容易に釣果は得られたもの。

後日旅の様子を写真とともにおふくろに伝えたら、牛窓の魚はホントに美味しかったね、と思いおこすように眼を細めた。

当時の少年を熱くさせたのは紙芝居。
水飴ナメなめ、おいさんの声色(こわいろ)から紙芝居の世界に惹き込まれたもの。(無論まだTVは一般的では無く、我が家に入ってくるのはその数年後)

この紙芝居が打たれた海沿いの広い敷地も駐車場として残っており、往時の黄金バットの幻影が見えたのは、暑さのせいばかりでも無かっただろう。

風呂は石炭が熱源だった。焚きつけ担当の少年は、近くから拾ってきた乾燥した杉の葉を使ったり木を細く刻んだりと、石炭に着火すのは容易では無かった。

間もなくこの石炭は灯油コンロに代わり、さらには電化製品第1号・東芝の炊飯器も販売が始まったばかりだったが、新しもの好きな父がさっそく買い付け、母を喜ばせた。

冷蔵庫はまだ無く、前夜の瀨戸内の雑魚の煮物の煮こごりをご飯に掛け、食した。
鶏卵は近隣の農家から買い求める高価なもので、食卓に上がるのは稀だったはず。

今思えば貧しい生活だったのだろうが、日本社会全体が均しく貧しく、引け目などを感じることもなく、むしろ希望にあふれ、幸せな日々だったように思う。


戦後史から振り返れば、当時は朝鮮戦争による特需で社会は潤い、沸騰し、高度消費社会へと移行しつつある頃だ。
敗戦後10数年を経たに過ぎないというのに、希望に満ちた日々があったと言うこと自体、今考えれば不思議なものではある。文字通り「奇跡的な」戦後復興だったのだろう。

むろんこどもという特権からする狭い領域への評価に過ぎないのかも知れないが、いやいや私の両親にしても忙しい日々の中にあっても、希望に満ちた時代を生きていたと思う。
暗い戦争の時代があったがための反動という要素もあったのかもしれない。
おのおの、世代に応じ、与えられた仕事、使命を果たしつつ、確かな未来を信じ、そこに楽しみを見出し一生懸命生きていたあの頃。

父は牛窓の北側に位置する錦海湾という大きな入り江を全域干拓し、塩田、製塩所を新設するという大規模なプロジェクトを請け負ったゼネコン土建会社の社員。

土建会社の社員であるため、全国の現場を数年おきに点々として移動する。
私が生まれてからだけでも、この牛窓で5個所めの赴任地だったようだ。
その多くは電源開発のためのダム建設の現場。つまりほとんどが山中。

子供であれば、どんな環境であれ、楽しみを見出すことは得意だったのだろうが、この牛窓は海辺と言うこともあり、とても開放的で、子供にもポジティヴな心性を形成する場として作用したかもしれない。


この錦海湾の干拓事業は5年ほどで竣工し、東洋一の規模での流下式塩田が稼働し始めることになるが、その頃はもう既に新たな工事現場へと赴任していき、家族もそれに伴い引っ越しするので、稼働状況を視ることはついぞなかった。

しかしこの大規模流下式塩田も10数年で終わり、イオン交換膜製塩法式へと切り替わっていくことになったようだ。
製塩法に限らず、多くの生産システムが近代化を遂げていく、そうした結節点的な時代だったのだ。

この干拓された錦海湾は数年後には日本最大規模ののメガソーラー事業がスタートするとのこと。

宿を取った高台のホテルから見下ろす牛窓湾の一瞬の夕焼けは島々を神々しく浮かび上がらせ、半世紀を経て降り立った少年の感傷を励起させるに十分なもてなしだった。

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