工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

七回忌を迎える3.11震災被害

2011年3月11日、北関東から東北一帯、沿岸部に襲いかかった震災被害から今日で6年を迎える。

私たちの生活に深く根を下ろしている仏教の概念からすれば、犠牲者遺族にとっては七回忌と言うことになる。
その数、15,891人。

さらに、6年経ち、未だに行方不明者としてリストされる2,584人を加えれば、18,475人という数になる。
福島県下で、あるいは全国に散らばった避難先で、犠牲者遺族の法要が執り行われたものと思う。(人数は警察庁、2014.03.11現在)。

行方不明者の家族にとり遺体が揚がらぬままに迎える6年目をどう受け止めているのだろうか、その胸中は安易な想像を拒否するほどのものがあるだろう。

そして未だに沿岸部に向かい、我が子を捜し求めスコップを振るう親、あるいは新たに潜水士の免許を取り、海中に娘の姿を探し求める親もいるとのこと。

通常の死者との関係で考えれば、故人を意識外に置き、弛み無く日常を送りつつある遺族もこの日ばかりは故人に向き合う場というものが七回忌ということになるのだろうが、3.11犠牲者遺族にとっては、それほど単純では無い。

今日、政府主催の追悼式が執り行われた(福島や仙台で無くて、なぜ東京でなのだろう?)が、これに併せ毎年決まって開かる記者会見は開かれなかった。
「節目」だからだそうだ(ハフィントンポスト)。


なるほど、6年という月日の流れは節目と言われるほどの時間の単位なのか。

確かに6年という月日は決して短いものでは無い。

中学生だった子らも、この1月には成人式に臨んでいただろう。
小学校に上がった子供も来月には中学に進学するという、長〜い時間の単位だ。

親を亡くした子供にとっては、その親の顔も今では定かで無くなってしまうほどの月日であるかもしれない。
一体それを誰が責められようか。

だが、七回忌法要で仏の前に正座させられ、お利口さんに神妙にもなれば、あの時の怖ろしさ、親と別れ別れになった哀しさにフラッシュバックが起こり、泣き伏すやもしれない。

子供の情緒不安なことなどを引用せずとも、3.11に由来する事柄は、多くのことが現在進行形であり、何一つ落着などしていない。
以下、これらについていくつかのことを取り上げ考えて視たい。

まずは、やはり子供たちのことから始めてみよう。子供こそ未来であり、可能性であるからだ。

避難者の子が置かれた厳しい状況

このところ、福島からの被災者、避難者の子らが避難地域でひどいイジメに遭うという事案が続けて報じられた。

天地がひっくり返らんばかりの突然の大地震、大津波を受け、着の身着のまま避難所に送り込まれ、慣れない集団生活を余儀なくされ、それも数ヶ月単位で幾つもの避難所をたらい回しされ、最後は仮設住宅という名の、雨露凌げるかどうかも不確かな仮の宿という状態は、小さな子供にとりどれだけ過酷なものだったかは想像に難くない。

心身ともに不安定な状態に捨て置かれ(大人も自分のことで精一杯で構っていられないという厳しさもあっただろう)、体調は崩しやすく、心のバランスが壊れやすいのは当然。

子供というのは知力も備わっていなければ、感情に支配されやすいだろうから、外部からやってきた避難者の子供をイジルのはワルガキにとっては恰好なターゲットだ。

加え、いじめっ子の言語的な獲得は親など周囲の大人からのもので、一知半解に放射線の怖さや、賠償金の話しを聴き覚え、恰好の対象が目の前に現れるや、吊し上げの暴力、恐喝まがいの脅しに踏み切ることなど、容易に想像できる。

問題はそうした状況に陥りやすい子供世界にどれだけ教員たちが目配りし、保護しなければいけない存在として彼らを認識していたのかどうか、という問題に帰着するのだろうと思う。


子供は成長のエネルギーというものを備え出生するもので、大災害に遭ったことでの苦悩、怖さ、自信の喪失も、時間経過という癒やしと、周囲の暖かい包容があれば、哀しさを越え、立派に成長していくだけの力をもっているもの。
そうした芽を摘んでしまうのが、悪質なイジメであり、教員の受け止め、保護の弱さによる孤立化であり、最悪、自傷から自殺への道を用意するものになっていたのかもしれない。

またこれらは教員個人の資質に負うところも大きいが、それにも増して現在の学校教育におけるシ管理運営ステム、労働環境の過酷さに拠ることも確かで、根深い問題でもあるのだろうと思う。

これらのイジメの報道から私たちは避難者の置かれた厳しい状況を知る契機にしなければいけないだろうし、決して繰り返されてはいけない。
子を持つ親として、子を預かる教育者としての責任と自覚を持って、子に接して欲しいと願うばかりだ。

8万人の避難者の実相は

今春解除 3.2万人の選択は
朝日新聞03/06.22p

現在、福島県の避難者は8万人と言われ、その約半数が県外で、残り半数が県内の仮設住宅、災害救助法に基づく、借り上げ住宅(みなし仮設)などに在住。

このうち、避難区域以外の、いわゆる「自主避難者」と言われる人々は、この3月末で住宅無償提供の制度が打ち切られ、追い出しに遭おうとしている。
飯舘村、富岡町はこの3月末から4月1日に避難指示が解除され、帰還が許される。

無論、多くの住民は故郷に帰りたいのは山々で、この時期を待ち望んでもいたはず。
しかし、6年前に村を捨て、放置されたまま、野獣やネズミに荒らされ、元の状態を安易に取り戻しそのまま暮らせるはずも無い。

そうした物理的、経済的環境の他、地域コミュニティーは壊され、他方、新たな仮設住宅での暮らしの中で作り上げつつあった人間関係を捨ててまで、あえて困難な帰還を選ぶというのは、いささか無謀と言うに近いものがある。


除染プロジェクトの一コマ(2011年10月)

除染プロジェクトの一コマ(2011年10月)

私も震災のその年、柿がたわわに実る頃に数回飯舘村へと除染プロジェクトで入村し、数軒の農家を周り、除染作業に従事したのだったが、その住民の顔、姿を覚えているだけに、帰還に向けどのような選択が正しい道なのか決断を迫られている今、その苦渋に歪んだ表情を考えれば、とても辛くなる。

今の暮らしの基盤である仮設もいつまで続くのかという不安の中、決断しなければならない。

帰還後、生活の術をどこに求めるのか、以前の生業、農業に従事しようと考えても、除染が終わってる土地とはいえ、汚染された土壌での営農の厳しさから免れるはずも無く、新たな困難を背負い込むことにもなる。

一部の人々は、福島第一原子力発電所の廃炉作業に従事する東電関係者の生活基盤となる地域に溶け込み、彼らの支援態勢に組み込まれていく道もあるだろう。
原発事故の最大の責任者である東電の職員のために働くという苦悩を抱えながら、日々の生活の糧を得ねばならないという困難。
「東電さん」の指揮命令系統の下で働く、その心中や、私には想像を超える。

また自主避難者と言われる人々への住宅借り上げ支援金は、この3月末でストップされる。福島県下から、県外へと避難している人は多く、来月からは避難そのものが認められないという過酷な状況に立たされることになる。
つまり安倍政権が語るところの「節目」なのだからと。(続 1/2)

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