工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

職業としての家具作りについて(5)

これまで木工家を取り巻く環境と、そこに求められるものについて考えてきたが、ここからはさらに具体的に家具工房の抱える問題を整理し、可能であればこれらの打開の道筋を考えていきたいと思う。

様々な業態の家具工房と、それらが抱える問題

様々な業態ということに関しては(2)で大まかに整理してみたが、木工家という側面により絞って見てみよう。

まず[家具作家]という位置づけがある。

ここではまずは社会的に広く[家具作家}として認知されている人であるか、あるいはまた自称「家具作家」であるかは問わず、そうした業態であれば、そのように位置付けて見よう。
しかし実態が伴わないものであれば違うところにカテゴライズされるべきだろう。つまり「家具作家」と自称しつつも他に生業の術を持ちながら活動している人たちだ。ただこれも「他に生業の術」とは言っても、家具製作に深く関連する業務であるか、全く異なる分野のものであるかによって大きくその位置づけも異なってくるだろう。


さて[家具作家]だが、現在の日本でどれぐらいの方々がそうした業態に就いているかは全く分からないが、他の欧米の先進国の国々と較べ、恐らく大きな差異もなく、さほどの人数ではないだろうと思う。
ただ日本固有の伝統的工芸の世界という範疇においては他国にはない特有な木工作家の活動領域というものがあるということについては触れておかねばならない。

茶の湯の世界に付随する木工品を製作する人たち、あるいは一部の数寄者に愛玩されるような精緻なものを製作する人たちのことだ。

こうした人たちは、所謂奢侈品という部類のものを製作するということになるので、いかに伝統的文化を大切にしている日本とは云え、かなり需要の浮沈は大きいだろうから一部の作家を除けば、これだけで工房を運営することは至難ではないだろうか。
このことは伝統的工芸品に限らず、現代的作風のものを制作する作家にも同様なことが言えるだろう。
さてこうした作家が抱える問題、あるいはそうした作家を志す人たちに課される課題とはどういうことになるのだろうか。

ボクはこうした分野の作家との交流がさほどあるわけではない。他のジャンルの伝統工芸の限りある人との深い交流をさせていただいたところから類推するしかないのだが…、

いうまでもなく、作家と云われるには一流としての評価を社会的に獲得し、これを継続させる力量というものが問われる。
これには類い希な作家性というものが要求されるだろう。作家性の定義づけというのも難しいのだが、その工芸についての技法の揺るぎない修得はもちろん、独自の技法を編み出すことで新たな地平を切り開くだけの努力と研鑽が求められる、そうしたものとまずは定義づけよう。
また作家が制作するものを買い求め、これを使いこなす顧客というものは、やはり社会的にも経済的にも恵まれたある種の層(旧い言葉で言い表せばブルジョアジーに代表される)であるだろうが、こうした人々が有する全般的な識見、教養などといったものに比肩するだけのものを備えるということも実は必要とされるだろうと思われる。

一見華やかな作家の世界であるかに見えても、対外的な社会、メディア社会などとの関係性を取り結ぶために求められるであろう自己研鑽と、それへの投資も並大抵なものではないだろう。
これはしかし作家的活動の中で知らず知らずのなかから備わっていくものであるという真理もあろうが、でもやはり家具製作という広い分野の中にあっては特異な存在様式であることは疑いないところだ。

こうした分野の人が制作する家具はしたがって既製品の家具とは全く異なるものであるだろうから比較対象すべきものではないと言うべきだろう。
つまり家具という姿を持ってはいても、それはあくまでも奢侈品としての価値を追究した工芸品としてのものなのだから。

こうした分野の作家が抱える現代的問題を1つだけ上げるとすれば、どの時代に於いてもこうした作家は社会的に格別に有用な層であったと云って良いだろうが、しかし今日の著しく進行する米国型の階層分化であるとか、拝金主義傾向の強まりという社会的動向を考えれば、これまでのような幸せな関係でいられるとはいえなくなってくるかもしれない。

みすぼらしい貧困者を努力が足りないと蔑み、豪邸に住み過度な消費を謳歌する成功者への供給源として有用であったとしてもそれはしかし作家として果たして幸せでいられるのであろうかという疑問もこれからは問題になるかも知れない。

まぁ、これを読んでいる人の多くは(執筆者自身も含め)望んでも叶えられる分野ではないだろう。こうした作家にはBlogなどにうつつを抜かし読み書きしガス抜きしている暇もないだろう(苦笑)

[家具作家に準ずる木工家](ちょっと変なカテゴライズだが勘弁してくださいね)
さて次に、家具作家とまでいかなくとも、ほぼ同様な製作スタイルを取っている人は大勢いると思われる。(ボク自身もここに入るだろう)
つまり生業として完全に家具製作を専業にしている人々だ。
いわば本件論考の主要な対象となるべき人々だね。
この層が制作する家具は、当然にも既製品との競合も想定されるであろうから、その存在意義というものが問われるということになる。

この層は大勢いるだけあって、市場をめぐる争いも熾烈(かな?)。また製作される品質、デザイン、価格帯なども実に多様だろうと思われる。
それだけにまた家具工房が抱える問題を一身に背負っている層とも言えるのかもしれない。

さてここでの多様性がどういうところから来ているかと云えば、やはり木工家具を志向するその人のアプローチの差異が大きいのではないだろうか。

  • モノ作りがこよなく好きで、木工工作が得意。これを生業にできるならばと、訓練校などからスタートさせる、という最も一般的に考えられるアプローチ。
  • 美術が好きで美術学校へと進み、その過程で自身の美術分野での自己実現を果たすために工芸品としてのアプローチから入ってきた人たち。
  • カントリーライフを人生の重要な選択肢として設定し、この実現のための生業として家具製作に入って来た人たち。
  • エグゼクティヴサラリーマンとして都会生活をしていたものの、これに馴染めずに第2の人生として家具製作に入ってきた人たち。

と、いくつかにリストしてみたがこれらは必ずしも職業選択における高潔さを直接的に示すものではないだろうし、また制作されるものの品位を決定づけるものでもない。
ただやはりこうしたアプローチの差異は木工家具製作におけるその製作者の意欲、投入力(人生のどれだけの部分を占めているのか)、として無意識の中に現れてくるかもしれない(意識がモノとして具現化されることの怖さ)。

しかしむしろ重要なことはどのようなアプローチであれ、木工家具製作に従事することのその人の位置づけ、誇り、貪欲な研鑽、などにおける差異が作られるモノに現れてくるであろうことは確かだろう。

加えて人生の中途からこの世界に入ってくる人も多いと思われるが(自分もそうですが)、それまでの人生において培ってきたものは木工などには全く役立たないものであることがほとんどだろうが、しかしオリジナルなものを製作するとか、作家的人生を歩むとすれば、目に見えない何某かの人生の豊かさも反映してくるであろうことも疑いのないことだろう。

つまりはどのようなアプローチであれ、一斉にスタート台に立てば基本的には同じであるが、それまでの人生を含むその人の総合力が試されると云うことは他の例えば会社人間などとは大きく異なるところだろう。

一方アプローチが異なれば、やはり制作されるモノが持つ固有の味わいは異なってくるものだ、とうことも真理だね。
これは決して絶対的価値基準ではないとしても、当然にも現実世界では品質の差異として評価され、相対的価値の差異として表れることも確かなことだ。

話を単純化して見れば…
田舎暮らしのために木工でもやろうかと訓練校に通い、何とか技術を修得できたので農家の廃屋を借り、親族から少し借金をして機械を設備し、家具製作をスタートさせる人。とりあえず家具と言われるものは製作できるだろうから、身内の人たちから受注して製作していくことになる。
注文した親族は「さすがに手作りだけあって、暖かみが違うね」と喜んでもらう。

一方美術学校に通い美学、デザインの基本を習得し、その後家具製作に自身の適性を見いだし、訓練校に入るなどして基礎を修得し、家族、親族の支援を受けつつ機械を設備し、その後は精力的に公募展に出品するなど研鑽を励みつつ家具製作に自己実現を賭ける。

あまりに単純化の嫌いがあるとお叱りを受けるだろうが、この2例では自ずから生み出される家具の相貌は異なるだろう。
つまり前者にあっては量産家具との差異が、「手作り」という属性に求められるだけになってしまう危険性があり、価格はどうあがいても相対的に高価なものにならざるを得ないのに比し、後者はそうしたものとは一線を画す、別の何ものか、つまり固有の美的価値を持つものとしての差異が獲得されていると言えよう。
あらためて云うが、上述の事例は単なる分かりやすい対比であって、実はこのアプローチの差異がその後の木工家具製作の歩みの過程でいくらでも逆転することはあり得ると云うことも事実なのだ。(こんなところで固有名など上げられはしないが、そうした事例はいくらでもある)
*ちょっとこの項、冗長になりすぎたので、途中なるも一旦終えて、次に譲る。

当初は本稿は4月中に終える予定でいた。これはそもそものきっかけが宮本さんの月初めの恒例のTopページコラムから触発を受けてのものであり、次の更新までに済ませるというのがせめてもの示すべき姿勢だろうと考えたからであったが、無惨にも果たせなかった。
非力さ故とはいえ、はなはだ申し訳ないと思う。
もはやこうなってしまえば、だらだらと…、という積もりではないので、精力的にまとめあげねばと考えている。宮本さんはじめ関心を寄せている人たち、ゴメンナサイ。

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