工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

職業としての家具作りについて(8)

現代の木工家具に求められるもの

あまり広範な領域で言及するのもそもそもの課題からしてそぐわないし、焦点が定まらなくなる怖れもあり、またその任でもない。

あらためてもう1度木工家具制作のこれからの在り方に引き寄せて考えよう。
これまで木工家具制作を取り巻く現状というものをいくつかの側面から考えてきたところからすれば、今後求められる家具とは、大規模な森林伐採を背景とした使い捨て文化、大量生産、大量廃棄されてしまうようなものではなく、必要にして十分な品質を持ち、長期にわたって使い続けられる堅牢な作りのものというのが、より良い賢い選択として必須の要件になっていくことは確かだろう。

オフィス、店舗などにおいて求められる家具には前にも記したように償却期間が例え短くともトレンドデザインを取り入れた張りぼてのものも需要されるだろうが、家庭生活などにおける家具需要は使い捨て量産家具ではなく、新たなライフスタイルのパラダイムに合わせた、より耐久性が高く、高品質なものが求められ、こうした市場の要求にボク達の制作者側は応えていかなくてはならないし、いやむしろそうした制作スタイルをもとよりとり続けている者として、積極的にこうした価値観を投影した家具制作を提案することが求められると言っても良いだろう。

無論、需要層は多様で、昨今かまびすしく語られ常態化すると見られる「格差社会」にあっては、価格訴求型のものが一定の市場シェアを抑えていくことには変わりはないのだろうが、単に富裕層からの需要ということに留まらない、ライフスタイルの探求型と言われるような需要層、一定の教養と高い感性を持ち、積極的な生き方をしている需要層からの高品質な木工家具への要求は一段と高まっていくのだろうと考えられる。

では具体的にはどのような考えを持って制作に臨むべきなのだろうか。

2つの方向性を考えてみる

いくつかの道筋があるように思う。各々が新しいパラダイムに即した方向性で自らの制作スタイル、制作思考を見いだすことで新しい制作様式が生まれてくるだろうと思う。

個人的に考えられる方向性をいくつか提示しなければ、本件の論考そのものが破綻するに等しいので、仮説的なものをも含め考えてみたい。

まず最初に思い浮かぶのは、量産家具の制作システムが失ってきたオリジナルな造形感覚を投下した家具制作ということが考えられる。
これはミニマルデザインとは対極にある有機的、あるいは官能的ともいえるかもしれない彫塑的なフォルムを含むデザインであり、制作手法だ。
これは可塑性に難渋である木という素材を用いた工業製品としての量産家具には困難なアプローチであるので、とても明確な在り方といえるだろう。

量産家具のものと較べ、品質を理解しない人々からもその特徴は視覚的に峻別されるものだからだ。
しかしこれも決して制作プロセスがイージーというものではなく、彫塑的であればあるほど、基本的な家具としての要件を満たすには独自の困難が伴う。家具という機能を満たしつつ独自な造形を体現させるためにはかなりの非凡な造形力が求められることは言うまでもない。

また木という素材の困難との闘いもその大きな要素だろう。木という困難な素材を良く理解し、練達した技法を投下することなくしては何一つモノにはならないかもしれない。
しかしこれを成し遂げられるデザイン感覚、造形力と力量があれば成功するだろうと思う。市場を獲得することは間違いない。

加えて優れたプロデューサーとの出会いがあればビジネスとしても十分な成功を収めることだろう。
この分野はとても分かりやすく、アートメディアからも取り上げられやすく持ち上げてくれるだろう。
決して多いものではないだろうが国内においても数人がそうした能力を発揮し活躍していると考えられる。

一方これとは異なるアプローチとして、例えばJ・クレノフのような哲学者然とした生き方があるだろう。その資質においてクレノフに追いつけないとしても、彼の木工芸に貫かれる「究極のアマチュアリズム」としての品質追求の方向性も魅惑的だ。
ここには造形的アプローチで量産家具に差異を求めるのとは異なり、素材としての木の選択から始まり、1つ1つのディテールに及ぶまで細やかな配慮の行き届いた加工と、気が遠くなるほどの長時間にわたるフォルムのバランスの検討と試作。
そしてその出来上がった作品が見せる宗教的な体験にも近い静謐な佇まい。

ここではビジネスとしての成功も、アートメディアにおける注目にも価値基準をおかないという、生き方そのものの質の高さが求められるだろうから、余人が真似できるものではないのであるが。

何故ならば、上述した造形的独自性を追求するという分かりやすい差異を見せるのではなく、ありふれたフォルムの中に封じ込まれ内在化された高度な独自の品位というものは決してわかりやすくもなく、アートメディアの注目を浴びるものにはなり得ないからだ。

そうした決して大衆性を勝ち得ない存在であったとしても、しかし限られた人であるかもしれないがその本質を見抜く力量と、資力を持ち、その作家をしっかりと精神的に、かつ物質的に支えてくれる人の存在を見いだすことは不可能ではない。
いつの時代でも社会というものが存在すれば本質を求める数寄者はいるだろう。先進諸国の仲間であるべき日本では残念ながらそうした層は厚くはないのが実態であったとしても。

こうした生き方を求める家具作家にはそのような究極の顧客に愛される資質を獲得できなければならないだろうし、それまでに至る相応の時間を自己鍛錬に没頭できる経済的余力と勇気とが必要になることは言うまでもない。

さて、今回の論考はこの2つの生き方を体現できる人ではない例えばボクのようなただ“普通の”木工家の在り方を探し求めているのであるが、さて、どうすればよいのか。

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