工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「人は愛するに足り、まごころは信じるに足る」中村哲

COVID-19(新型コロナウイルス)感染「問題」は安倍首相による「小中高の一斉休校要請」でピークの針が振り切られんばかりの昨今、不安と怒りと困惑ないまぜで木工どころでは無くなってる同輩もおられるのでは。
皆さまの安寧と健康を心から願うばかりです。

かく言う私は20年ほど前から喘息持ちの身でありかつ高齢者という条件も加わり、罹患高リスクの男。
…ではあるのですが、この喧噪からは一歩も二歩も身を引き、至って冷静に事の推移を見据えているといった風。
世話になっている呼吸器科の主治医からは毎年初冬には「インフルエンザワクチンを優先して接種させてあげるから…」とのありがたい警句にも耳を貸すことなく、ノンシャランと過ごしつも、至って健康なのです。・・・すみません。

さて今日の投稿はそうした世事からはちょっと離れます。

30代半ばからの木工職人としての長きにわたる人生。齢70を越え、身体の衰えを自覚せぬまま木工人生はこれからも続いていく、たぶん。

昨年末は土日返上、連日、暦が変わる時間まで働きづめという過酷な木工の日々だった。
眼光だけはギラギラと、しかし年越しの頃に計測した体重は4Kg減の値を示し慌てさせた。

師走の12月4日も前の日と同じように栗材に向かっていたが、ラジオからの臨時ニュースは張りつめた工房の空気を一瞬にして鋭く切り裂いた。

中村哲さん、凶弾に斃れる」との報。

2019年12月4日

我を失うとはこのことか。足下から崩れ落ちる感覚で手にした鉋を床に落としてしまう。
思考細胞はその方向を失い、パニック状態。

ジャララバードの荒野を疾駆する中村哲さん、根拠など何も無いのだが不死身の男とどこかで見做していたためか、不意を突かれ周章狼狽である。
その後もラジオに耳をそばだてていたところに入った第2報は「運転手を含む護衛4名は死亡、中村さんは銃撃を受けたものの、命に別状無し」とするもの。

しかし胸を撫で下ろしたのは束の間。第3報は暗転。かすかな希望を粉々に打ち砕くもので絶望感に打ちひしげられとめどなく涙が溢れる。


こんなことは後にも先にも・・・、いや、1度あった。

《2004年、「自己責任」の嵐の中で》

ブッシュJr.によるイラクへの先制攻撃の下、2004年、日本人ボランティアなど3名が人質となり、その後解放交渉が成功裏に進み、関西空港に降り立ったときの同胞からの悪罵の限りをつくした手荒い出迎えの時がそれだ。


あのような無垢で美しい心を持つ若者を「自己責任だろ」「国に迷惑掛けるんじゃないよ!」といった言葉の限りを尽くして謂われ無き悪罵を投げ掛け、玉子を打ち付け、徹底して侮蔑する。
これが自分と同じ日本人だと知ったあの時の怖ろしさ、悲しみ、絶望。
この時も同じように身体を硬直させ、やがて息苦しくなり、嗚咽とともに涙した。

医師・中村哲さんのアフガンにおける医療などの人道支援

中村哲さんは私より少し年長だがほぼ同世代ということもあり、世界から忘れ去られていたアフガニスタン北東部に根を張り、現地に張り付き、医療人道支援と、それを越えた井戸掘り、潅漑事業のリーダーとして生き抜いてきた彼の生き方、考え方は私の心を強く撃つもので、ただただ深く敬服していた。

中東アフガニスタンという、日本からは地球の裏側のような遠隔地で、いわば未開の地に1人の若いドクターとして幼児を抱えながら赴任するところからスタートした中村哲さん。

やがて2001年、9.11WTCテロへの報復として、ブッシュJr.によるアフガン侵攻が始まり、それまでも1979年の旧ソ連軍による軍事侵攻で荒れ果てたアフガンの地はこの根拠薄弱な理由付けによる米国の戦争行為はアフガンの地を壊滅的に荒廃しさせていくことになる。

しかし中村哲さんは一歩も引かず、日本の「ペシャワール会」の支援を受けつつ、荒れ地にスックと立ち、現地支援の先頭に立ち、アフガンの人々に寄り添い、共に暮らし、医療支援に留まらず、命を守るためのあらゆる生活支援に奔走。

この中村哲さんの尊い事業に強く刺激を受けた若者の多くが支援に駆けつけたのだったが、その先頭に立ち農業指導で活躍していた伊藤和也さんをテロで失うという困難も(「アフガニスタンから届いたニュース(追記08/27)」。「伊藤和也さんの遺影に接し
アフガンの地に根を下ろし地域からの信頼を勝ちとった上での活動であっても、アフガンの過酷な政治状況に晒されているという現実を突きつけられるものだった。

この事態はその後の支援態勢の転機になったのは確かで、もうこれ以上若者を犠牲にさせるわけにはいかないと断念させられ、それ以降、日本人としてはたった一人での活動へと邁進していくこととなる。

2001年、9.11WTCテロ

2001年、9.11WTCテロは米国、中東に留まらず、世界を大きく塗り替えるエポックとなる結節点だった。
当時の小泉純一郎首相は、ブッシュJr.の国際法に違反するイラク侵攻をいち早く支持し、自衛隊派遣へと転がり堕ちていくことになったのだが、これは平和憲法を国是としてきた戦後日本の在り様を大きく塗り替え、自衛隊の海外派遣への歯止めを容易に突き崩す新安保法制へと続いていく大きな転換点となる歴史的な結節点だった。

国内的には、先述の「自己責任」に象徴されるような「新自由主義」的経済社会へと変貌を深め、オウム事件なども挟み、地域社会の荒廃も進んでいくことになったのだが、こんな中で、当時、唯一といって良いほどの希望を指し示してくれたのが、オウムの一連の犯罪の端緒となったサリン事件の被害者でありながら、フレームアップの末、犯人と名指しされ断罪されてしまった無実の河野義行さん。
彼は権力からもメディアからも犯人視されるという、自身に覆い被さった謂われ無き宿命を負いつつも、冷静沈着に対応していく。

河野義行さん

地下鉄サリン事件の被害者のほとんどが「極刑でも足りない」と怒り猛るという状況の下、「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。」(『命あるかぎり』」から)という姿勢で一貫し、オウム信者との対話を続け、現代日本が産み落としたオウムという闇と対峙していくことになる。

以前、(「河野澄子さんの訃報に接し」)にも少し詳しく書いたが、私は荒廃する日本社会にあって数少ない希望の灯りを河野澄子さんの夫・河野義行さんの言説に見出したのだったが、全く異なる分野ではあるけれど、この中村哲氏もまた、世界的な視野に置いたとき、自律性を欠き、対米追従の外交で世界から疎まれる日本という国にあって、誇りを持って世界に押し出すことのできる数少ない日本人の一人だったように思っていた。

そのことからもこの度のDr.中村さん惨殺は希望の灯りを遮断するものであり、目の前が真っ暗闇になるほどだった。

ペシャワール会の現地代表者・中村哲氏の業績については、大干魃で砂漠化し、農業を主たる生業とする民衆が故郷を追われ、難民化する状況下、医師としての職域を大きく超え出て、潅漑事業に踏み出し、緑の大地へと変貌せていく実に壮大なストーリーは多くのメディアが記録しているので詳述は不要だろう。
(『西日本新聞』が「特別サイト《一隅を照らす Brighten the World in Your Corner》」を作っており、ぜひ参照されたい)

バーミヤン渓谷の石窟仏像の破壊への立場表明

ここでは中村哲という一人の人間の思考と行動規範に接近するための素材を2つほど挙げておきたい。

1つは、2001年2月のターリバーンによるバーミヤン渓谷の石窟仏像の破壊に対する西欧社会から殺到したごうごうたる非難への言及。
以下、ペシャワール会報に寄せられた中村哲氏の報告「伝わらざるアフガニスタン─バーミヤン石仏破壊に思う─」から、少し引用する。(会報Np.832.そのものはURLが切れていて、全文引用の他のサイトを参照

「今世界中で仏跡問題が盛んに取りざたされているが、PMSは非難の合唱に加わらない。餓死者が百万人といわれるこの地獄のような状態の中で、今石仏の議論をする暇はないと思う。暴を以て暴に報いるのは我々のやり方ではない。平和が日本の国是である。少なくとも吾がペシャワール会は、その精神を守り、建設的な相互支援を忍耐を以て続ける。


われわれは諸君を見捨てない。人類の文化とは何か。人類の文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神でなくて何であろう。それは我々の心の中に築かれ、子々孫々伝えられるべきものである。」


事件からは20年近くの時間経過もあり、あまりピンとこないかも知れないが、当時私は中村哲さんのアフガンの民がおかれた厳しい現実に寄り添い、命を張った活動に邁進しているその原点を教えてくれるエピソードの1つであるように思ったことを想い起こす。

また、このターリバーンによるバーミヤン渓谷の石窟仏像の破壊へは、イランの敬愛する映画監督のモフセン・マフマルバフ氏の『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
とする論考があり、中村哲氏の思考を読み解くためにも、関心のある方はアクセスしていただきたい。

近代世界の周縁に位置するアフガンという国が世界にあってどのような位置づけにあるのかは、地理的にも歴史の歩みの違いからも余りにも遠く離れた日本からは接近が実に困難だと思う。

そんな見捨てられたアフガンも中村哲さんの著書やリポートを開けば、1つ1つ、リアルな映像として定着してくる。
そこからは内外のメディアが報ずるアフガンという国へのイメージがいかに浮薄で、ステレオタイプ的なものでしかないかを医療支援や潅漑事業を通した現地の人々とのなにげない交流の様子から窺え、土俗的、習俗的な生活慣習の中でのどっかりと根を下ろした部族主義による支配様式であったり、前近代的な規範の隙間は旧ソ連や、西欧による侵攻を容易に許してしまう土壌があることを知る。

9.11以降、近代社会を司ってきた資本主義への異議申し立ての文脈は、今も、これからも最大の世界的な政治課題として問われいくのは疑いないところで、こうした状況下、世界の周縁に位置するアフガンの現実と、彼らへの接近の手法を見事なまでに開拓してくれた中村哲という一人の日本人が伝えてくれたことがいかに重要なことであったかは、その存在を失うことで、より鮮明になっていくのではないかと思う。

2001年 国会での証言「自衛隊派遣は有害無益でございます」

もう1点、日本という国における中村哲氏の位置関係をとても分かりやすく象徴する事柄を挙げておきたい。2001年、9.11直後、ブッシュJr.のアフガン侵攻に合わせ、日本の自衛隊派遣も俎上に上げられた時期の国会に招かれた際の中村哲氏の証言だ。

第153回国会 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会(2001年10月13日)全文はこちら

「テロという暴力手段を防止する道に関しましても、これは暴力に対しては力で抑え込まないとだめだということが何か自明の理のように議論されておる。私たち、現地におりまして、対日感情に、いろいろ話はしませんけれども、日本に対する信頼というのは絶大なものがあるのですね。それが、軍事行為に、報復に参加することによってだめになる可能性があります。」


「ほかの地域ならともかく、アフリカだとか南アメリカは私はよく知りません、あの地域しか知りませんので、現地に即して言いますと、例えば自衛隊派遣が今取りざたされておるようでありますが、詳しいことは後で御質問で受けたいと思いますけれども、当地の事情を考えますと有害無益でございます。かえって私たちのあれを損なうということははっきり言える。」


「私たちが必死で、笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのはだれか。私たちが十数年間かけて営々と築いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。

「自衛隊派遣は有害無益でございます」
この証言には自民党席から様々なヤジが飛び交い、自民党議員からは発言取り消しを求められたが、一歩も退くことなく、アフガンの現状を伝える使徒としての使命を貫く。

米軍とその同盟軍による空爆の下、治安の崩壊状況にあるジャララバードにあっても、アフガンの民衆とともに丸腰で日々活動できるのが、平和憲法の国、日本からやってきた医療従事者だという誇りと信頼が担保されているからこそという信念が彼にはあり、それをブチ壊すような自衛隊派遣がいかに愚かな事かを説く証言者であれば、発言取り消しなどできようもなかったのだろう。

中村哲さんとは一体何者?

ところでDr.中村哲のこの気骨の起動力はどこからくるのだろう。

彼は中学の頃に洗礼を受けたキリスト者(パブテストとしての洗礼、内村鑑三にも大きな影響を受けたと語っている)であり、哲学的な思考の源泉はそこに見出すことができるように思う。

また、もっと古層には父親から徹底して論語を素読させられたりと、東アジア的な倫理観に染められていたこともあるようだ。

さらには医学生時代は60〜70年代の全共闘時代に重なり、反戦平和運動の怒濤のような盛り上がりに影響を受けなかったとは言えないだろう(ただ彼は左翼ではなく、むしろ天皇主義者的な側面を有するとも言えるリベラリスト)。

もう1つ。これは私見の1つに過ぎないことなのだが、中村哲という人を考える時、見落としてはいけないことがある。わかりやすく言えば火野葦平の甥という出自についてである。

つまり北九州・若松の沖仲仕の親分であった玉井金五郎・マンの長男・火野葦平の次女が母親というルーツは(何度も映画化された『花と竜』に描かれている壮絶な物語)、多くを語らずしても、社会との関係における人間の生き方、在り様というものの規範が色濃く反映していたことを窺わせる。
「川筋」といわれる濃い血が起動させる気質と正義感。

いわゆる人道支援に燃える、どちらかと言えば頭でっかちな理論肌というイメージとは異質で、「目の前に困った人がいれば手を差し延べるのが人間であり、それが自分に課された運命」と淡々と語ることもあり、いわばかつて日本人のある固有の人々が有していた親分肌の心性の持ち主とも言えるのかもしれない。

一人の日本人医師が命を張り成し遂げた荒廃したアフガン再建の事業は私たちに多くの事を教えてくれている。
道半ばという形容も決して間違ってはいないだろうが、考えられる事以上のある種の奇跡と言っても良いほどの業績を遺し逝ってしまわれた。

彼のような闘う医者、闘う活動家としてはジャララバードの地に命を落とすという最期もある種避けがたいことだったのかもしれないが、しかしさぞ無念であったろうと思う。

来し方 行く末

中村哲さんは逝ってしまった。
彼の活動を支えてきたペシャワール会は彼の意志を継ぎ。今後もアフガン再建への支援を継続してやっていくという力強いメッセージを発している。

それは喜びたい表明である。しかし現地代表が居なくなった今後は苦難を強いられることは必至。
何よりも中村哲という属人性があってこそのペシャワール会であればそれもやむをえないのかもしれない。

ただ、母と共にご遺体の迎えに向かった長女秋子さんの1月25日の5,000名が駆けつけたとされる「お別れの会」でのメッセージは、共に活動した現地の仲間や、アフガン政府の大統領、地元の長老らの中村哲氏への深い感謝と暖かいもてなしの言葉の数々の紹介と共に、「恥ずかしながら、私は今まで父のやってきたことに携わってこなかったが、これからは少しでも役に立てればと思う。それが父の弔いにもなると思う」という決意にあふれた言葉があり、確かに中村哲さんの思いと事業はこれからも次の世代に引き継がれることを確信させるもので、さすがに中村哲さんの子女と感服させられ、集まった5,000名の参加者には温かい涙とともに新たな勇気を与えるものだったことは触れておきたい。

私はアフガンとは対極の銃撃される懸念などない安寧で平和な日本で暮らす木工職人。
いや、もっと自覚する必要があるだろう。30数年間にわたるアフガンの紛争、戦争状況には米国を追従する形で日本も深くコミットしてきた。

その構成員の一人として、中村哲さんが伝えてくれたアフガンという国の現状と、そこにどのように関わるのか、という根源的な問いは死してなお強く心を揺さぶる。

馬齢を重ねつつ、やがては中村哲さんの享年を超え木工を続けていくだろうと思うが、せめてペシャワール会への支援を通し、彼の意志を自身に問いかけ、愚直に生きていきたいと思っている。

2020年1月25日 「お別れ会」(毎日新聞の動画より)


参照
ペシャワール会
■ AFPBB 動画:アフガニスタンで中村哲さん追悼集会 「真の英雄」しのぶ

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  • 二ヶ月ぶりの書き下ろし  休暇はいきかえれります。
    危ういことが連鎖しても 地上の終わりではないから
    あしたマイニアーニャ ラテン気質がいいのです。

    非攻撃非戦性格のウッドワークは、穏健な生業でした。
    木目を初めてみたのが一万年まえ  青銅・鉄の文化からでし
    あと100年先に「木の内科」は繁盛しているでしょうか?
    あと20年はジンワリシコシコ
    ケセラニン一号の執事拝命abe

    • ドウモ、多岐にわたる領域のお話しで返答に窮しますが、Blog記述・更新作業の遅延、停滞は紛れもないところ。不定期な更新が常であるとしても、あまりインターバルが空かぬよう戒めねばいけません。
      中村哲という一人の日本人が成し遂げた業績については数多くの著書や西日本新聞などから辿れますが、この投稿であらためて感じたことは、この「大きな人」を全的に捉えるということの難しさです。荒くれた沖仲仕が出入りし、労働争議に奔走する親元で論語の素読を強いられつ、昆虫採集に明け暮れる多感な少年時代に洗礼を受け、気がつけばアフガンの地で食うや食わずのムスリム少年少女の胸に聴診器をあて、いつしかその聴診器はシャベルに代わり、重機操作へと突進していく様は、やはり安易に語れるほどの人物では無いです。なおここでは言及できませんでしたが、こうした彼の最も良き理解者の一人が皇居の奥深くにいたという現実には私にはもはや口を閉ざした方が良いのではと思い至ったりします。(同じ九州の石牟礼道子さんの晩年も同じようでしたが…)

      あっ、このところ私が工房で流す音楽はコンテンポラリーなラテンです。気質に合うようです。

  • 拝読し改めて、中村哲医師の存在は亡くなってからも希望の方向へアフガンの人々を励まし続けると思います。また楽観とは程遠いが我々日本人をも絶望の淵で、そこから転落するのを押しとどめてくれる存在でもあると感じます。

    • rakkoさん、心優しいコメント、感謝であります。
      貼り付けたYouTubeにもあるように、大統領、地元長老を初め多くのアフガンの人々から寄せられた中村哲さんの死を悼む言葉の数々は遺体引き取りに出向いた家族を驚かせるほどだったそうです。

      仰る通り、日本という国にとり中村哲さんは1つの「救い」でした。
      日本の悪政を浄化するような、とでも言いましょうか。

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