工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

原発・国民投票をめぐるメディアの微妙な変化(東京・朝日)

先のBlog記事、カタログハウス『通販生活』の《みんなで決めよう「原発」国民投票》をめぐるTV CMお断り問題だが、いろいろと波紋を呼んでいるようだ。

それまで長くカタログハウス『通販生活』のCMを一定の枠で契約・放送していたTV朝日だが、放送を拒否することで得られたであろう(そのように想定したであろう)、電力会社ら原子力村などからの信義と、一方、こうした波紋を呼んでしまったことの話題性で失われる信頼性をはかりに掛けると、果たしてこの会社の企業理念、コンプライアンス(最近よく聞く横文字だね)の評価はどのように推移しているのだろうか?

昨日の東京新聞「筆荒」というコラムでは、流されなかったこのCMを取り上げ、「国民投票」へ向けた市民運動が盛り上がりつつある中での一件であったことを明かしていて、好ましく思った。
このような最大の「国民的関心事」に関わる、広汎な市民的運動であるにも関わらず、しかしほとんどの大手メディアがこれを無視するという、実に特異な日本的現象の中にあって、これに抗う姿勢を見せているのが、この「東京新聞」コラムニストだ。(こちら

また、同昨日、27日の朝日新聞・社説には「政治を鍛える 国民投票―原発の将来みんなで決めよう」と、きていた。

国民投票という、日本の政治舞台では馴染みの無い市民の意思表明手段というものが、いかに有用なもので、間接民主主義、代議制という憲法に基づいた政治手法と、決して相容れないものでは無く、ぜひやるべきだ、との主張を展開していて、ちょっと驚いた。

驚いた、というのは、3.11以前には恐らく考えられはしないような朝日新聞の主張の変化をそこに感じるからだ。

3.11原発震災を受け、あらゆる既存の制度、思考様式、政治社会を取り巻く閉塞性、それらと深く関わっているメディアの荒廃という、様々なものが流動化させられ、あるいは一旦完全に思考停止させられたところから、あらためて各々の立脚点を問われ、そこからリスタートせざるを得ないところに、今、立たされているということなのだろうな、という感触が、こうしたところに少し見えている、という評価は甘過ぎだろうか。

しかし、こうして個別具体的な記事を取り上げ、個別評価していくことで、新聞社の姿勢を市民の側に少しでも引きづり寄せなくてはいけないだろうと思う。
もちろん所詮は電力会社などの大口客を相手にせざるを得ない商業新聞であることは重々承知の上でのことだが(ジャーナリズムとは、そうした自己規制から解放されたところにあるべき、というのが本筋なのだが)。

社説の後段では「問われるメディア」ということで、自己批判でも展開しているのかな、と期待させたが、そうではなく、ネット社会の時代における個人の言論空間という新たな現象への危惧を中心に構成されていて、笑えてきた。
まずは自身のジャーナリズムとしての機能不全、言説の劣化をこそ問うべきだったのではないか。

しかし、最後の結語は共有したいと思った。こうだ。

新しい議会制民主主義の時代だからこそ、政治を鍛える視点で国民投票を考えよう。
自分たちのことは自分たちで決める。その責任感を国民が持つことが大事なのだ。

先に紹介したように、民主党政調会長前原氏の言、国民投票は否定する立場から「国民は政治家と較べ、専門的な立場から判断できるとは思えない‥‥原発のような重要な問題はプロフェッショナルな政治家に任せて欲しい」とゴーマンかましているが、そのプロたる政治家の「安全神話」ふりまきの結果の3.11原発震災ではなかったのか。

東京新聞「筆荒」が言う次の指摘はそのまま前原氏に向けたものでもあるだろう。

▼原発の是非を国民投票で決めようという市民運動が広がっている。ただ政治家の関心は鈍く、批判的な声すらある。そこには、理性的な判断は国民にできない、という蔑視が潜んでいるように思える

3.11以後、ドイツをはじめとして、原発を稼働するEU諸国のいくつもの国が脱原発へと大きく舵を切ったのは記憶に新しいが、イタリアは国民投票の結果としての脱原発決定であったし、スイスもまた、閣議決定から、国民投票を経て正式に脱原発へと踏み出そうとしている。

日本だけがどうして国民投票に馴染まないと言えるのだろう。
前原政調会長の眼からは日本人は二等国民にしか見えないというわけか。

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