工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

Blog開設10年

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Blogというツールの今

インターネット世界でのコミュニケーションツールとしては、今ではSNSが主流。
それもTwitterからfacebookへと比重が移り、Blog設置者の多くがそちらへと流れているようです。

私も2年ちょっと前からTwitterアカウントを持ち、気になる知人、著名人の呟きに耳を傾け、貼り付けられたURLを探索する楽しみを覚え、時には自分でも投稿するなど、その恩恵を被っている者の一人です。
140文字という制約が持つ独特の文体にも慣れてきたところです。

こうした個人の楽しみを置いても、社会に及ぼすその影響の大きさには無視できないものがあるようで、SNS的社会現象とも言うべきインパクトを与える局面もあるようです。

一方、facebookアカウントも薦められますが、私にはかなりハードルが高い。
勇気が無い、と言った方がが正しいでしょうか。
自分自身もそうですが、周囲の知人関係に迷惑が及ぶのを避けたいと考えるからです。


さて、このようなSNS全盛時代にあって、Blog活用はどんな位置づけになるのでしょう。
SNSはコミュニケーションツールとしては、実に多機能、かつ拡散性は高く、その威力は認めつつも、他方、自由度が高く、汎用性のあるBlogは簡単には手放せません。

2005年2月に産声を上げたこのBlog「工房通信 悠悠」ですが、設置から10年経過したことになります。
起ち上げ時の高揚した思いも、ついこの間のような感も拭えず、これも年のせいでしょうか。

侘助

侘助

20才の人間にとり、10年という時間の流れは人生の半分という長さの単位。
それだけ長い。

40才も過ぎれば、この10年は1/4という長さに圧縮されます。
ましてや、私のように60も越えれば、その長さは計算を途中で止めてしまいたくなるほどに短いものでしかありません。

紛れもなく時間経過における感覚の差は否めませんが、10年という時間軸で果たして何を残してきたかと問われれば、ゴミの山を高くするだけのようなものだったかと答えるしか無いかも知れませんね。

われわれ市井の人々の日々の営みもまたそのようなものでしょうから、何も慨嘆するほどのものでは無いでしょうけれど。

淡々と弛み無く続けるところに何某かの意味もあるというわけです。

一昨年あたりから、工房の移転、新設などという大事業に伴う繁忙さのためもあり、このBlogも更新停止といった状態が続き、気弱な私などはその程度で自己嫌悪に近い感覚に襲われるという風でしたので、やはりこうして継続している方が心理的にも良いようです。

家具作り、モノ作りは生業(なりわい)ではありますが、私にとってはモノ作りそのものが生活であり、いわば工房的生活とでも言うべきライフスタイルであるわけで、これに加え、ブロガー的生活も随伴していると言うことになります。(ブロガー的生活と言いますと、アフィリエイト[1] などで、小遣い稼ぎをするといったイメージが強いかもしれませんが、このBlogは広告も無ければ、アフィリエイトもしていませんので、少し意味が異なりますね)

ライフスタイルとしてのBlog運用

「工房的生活とでも言うべきライフスタイル」と言いましたが、これはモノ作りそのものだけを語るのではなく、ひろいフィールドから、暮らしそのもの、あるいは人生そのものを語るといったニュアンスが含まれます。

私は幾人かの著名な物書きの方のBlogを読む事も多いですが、本来のフィールドである本などの出版物、あるいはメディア出演などでは語らない、極私的なものが書かれることがあり、公的出版物にはない、その人のパーソナリティに触れることができ、嬉しいものです。

もちろん、執筆からタイムラグを挟むこと無く瞬時に届けられるという、インターネット固有の同時性のメリットがありますが、それ以上に記述内容での自由性に惹かれます。

そのお宅の茶の間にお邪魔し、打ち解けた雰囲気の中で私的な会話に触れさせていただくといった風の感じが良いものです。

本業である出版物の生まれる背景、バックグラウンドを知ることで、より公的な仕事を理解する手助けにもなるというわけです。

私のBlogなどをそうしたものに類推させることはとてもおこがましいと言うべきところですが、狙いとしては大きな違いはありませんね。


過去、数度、このBlogへのコメント、あるいはBlog記事を介し、著名な方(ほとんど全てがファンと言うべき方々)からアクセスがあり驚かされものでしたが、これもインターネットならではのもの。
木工とは関係の無い、音楽であったり、美術といった分野の記事へのアクセスでした。
検索で引っ掛かり、暇つぶしに一声掛けてくれたのでしょう。
その中の数人とはその後もメールでの交歓を続けていますので、そうした意味からもBlogも捨てたものではありませんね。

こうして、木工を基軸としながらも、いろいろな方との繋がりを取り持つツールでもありますので、今後も弛まず、じっくりと取り組んでいきたいと思います。

カウンターカルチャーとしてのインターネット

最近、このBlogからの画像盗用という問題があり、リポートの通りいやな思いをさせられたものですが、これは運営管理者の責任を越えたところでのパクリであり、防ぎようも無いワケですので、良識のある振る舞いを前提とした運用をしていくしかありません。

そうしたネガティヴな要素を受忍しつつ、インターネット世界の豊穣さ、カウンターカルチャーとしての自由性をこそ自覚的に活用していきたいものです。

Apple.incは、’70年代、カリフォルニアの地において、カウンターカルチャーの息吹の中から生まれたことは良く語られる話ですが、今や世界最大の企業に“成り果て”、株価を横目で睨みながらの開発という、どこにでもあるようなつまらない会社に堕してしまったかのように見えるのは私だけでしょうか(無論、そうした道筋を辿ってきたのは成功者としての証しであり、宿命でもあるわけで、この嘆きはそれを踏まえた上でのジョブズ氏への哀惜であるのです)。

しかしBlogなど、インターネットならではのツールは、米国防省の軍事ネットワークが元になっているとは言っても、やはりこの活用のされ方はどこかカウンターカルチャーの彩りを残していて、自由闊達さが好ましく思われ、これと親しくするのは、個人的にも’70年代の熱い時代に触れてきた世代として、楽しいものであるわけです。

見果てぬ夢へ

ところで、インターネットの掲示板など「便所の落書き」などと喝破(難詰?)したのは筑紫哲也でしたが、このBlogも、同じようなものだ、などと言われたとしても、私は何も抗弁しません。

言葉を職業的に取り扱う編集者のチェックを介し、公刊されたものだけが正統性を持つというのは、一面の事実であったとしても、真実の全てがそこにあるわけではない。
「便所の落書き」的なものにこそ、実は既製の言説に隠れる欺瞞性を暴き、新たな社会を標榜させるスピリッツが潜んでいるかもしれないわけです。

人間社会の進展とは、意外とそうしたところから始まるといっても、決して大きな間違いだとは言えません。

ただ私は、真善美という三位一体の価値評価に基準を置きたいと考える立場ですので、例え個人的な嗜好が評価を左右することがあったとしても、自身の真善美への価値観を基準として、「便所の落書き」への評価も下していきたいと考えています。

問われるのは、既製の価値観を脱し、いかに自由で、開かれた視点で見ることができるかどうかであると思いますので、100の投稿の中で、そうしたキラリと光るものが1つでも書ければしめたものです。

ましてや、木工という日本古来のモノ作り文化に関わる領域での事柄が、急速に力を失いつつある時代にあって、その豊穣さ、開かれた可能性を問い続け、次の世代へとバトンタッチしていく試みは例え無謀な企てであるとされたとしても、無意味だとは思いたくありませんので、木工世界を四半世紀以上にわたり楽しませてもらった者として、書き続けていくのが務めというものでしょう。

そんな考えにしたがい、ゆるやかに、弛まず、運用していければありがたいものです。
読者のアクセスと、レスポンス、そしてご教示、ご叱正こそが推進力でもありますので、よろしくお願いします。

《関連すると思われる記事》


❖ 脚注
  1. 成果報酬型広告 []
                   
    
  • 今の所、私はSNSとは無縁ですね。
    携帯(スマホ)に振り回されてしまいそうで、使う気になりません。
    ところで、先日紹介いただいた、ろくたるさんのブログ、コメントを
    受け付けていないんですね。
    我が道を行く、ということかもしれませんが、ちょっと残念。

    • SNS、アクティヴに活用する人には有用でしょうが、そうでなければ近づくことも無いと思いますので、acanthogobiusさんの選択は悪くないと思いますよ。

      ろくたるさんのBlog、設置当時はコメント受け入れていたと記憶していますが、閉じちゃいましたね。
      Blogの運用法も様々ですから。
      ・・・私からのLinkも迷惑だったかも知れませんしね(苦笑)
      ま、しかし、acanthogobiusさんという読者を増やした意味では有用だったかな。
      伝えるべき事があれば、メールすれば良いのですし。

  • 近頃は、大人も返事をしなくなりました。手紙なんかもらったことがない。
    人と人の間に機械が入り込むのは人類の生活ベースを狂わせるようです。顔が見えないのはお化けと向き合うような感じですね。ドンドンおかしくナルでしょう。電話なら 相手のいかれ具合 くたばりそう また危ない が分かりますね。
    直に出会ってシャベラナイト。やがて声がでなくなり、耳も退化 いや老化です。wa。キコル 怪世羅 ABE

    • 私も、そのイカレた奴の有力候補かも知れません。

      IT企業の最新の動向として社内コミュとしてメールは御法度。
      ちゃんと会って、打合せ、交流しましょうとの流れもあるとか。
      ネットコミュの様々な弊害が指摘され,、一部に揺り戻しが置きつつあるのも確か。

      今朝の朝日書評『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』に注目。
      人間が人間でなくなることへの警鐘。

  • 「会話」会ってはなさずす。「対話」煩わしく体面しない。人の間に機械が入り込み、コミニケーションがゴミニケーに変わりつつありますね。
    ある研究では、” Co” は 語源が同じで「合」。つながりジョイント結びつくの同意語でした。
    Company Corporation Collaboration Community Collection — 。最近SNS憑かれもチカレテ、脳味噌も飽きてきたようです。歓び溢れる生の感動なんて置き去り。
    Loftのテラスで若者がテーブルを囲み、MacAir,iPad、携帯、スマホ中。時々、顔見合わせる声無しカップルに目をパチクリ。 山の鳥もあまり鳴かない沈黙の春です。有害電子遮断・効率離脱は生き物の証でしょう。

    • 人類の進歩、科学技術の進化とは一体何なのか、という根本的な問いはいつの時代もあったと思われますが、IT技術はそうした牧歌的な問いをはるかに越え、人類の本能を司る領域にまで影響を及ぼす、ドラスチックな変化をもたらしていることは確かでしょうね。
      神の領域、とまで言った方が良いかも知れません。

      我々の世代では、まだ批判的に客体化できますが、IT社会に生まれた世代の自我の生育は困難を強いられるでしょうね。

      また、低開発国でのIT技術の民生的活用は、先進国へのキャッチアップへの近道になっていることでは肯定的に評価できる側面もある一方、国内の経済格差を極限的に高めることにもなっていますし、
      あるいはISの台頭もIT活用に依っているなど、世界の不安要因を高めることになっているなど、その影響はあらゆる領域におよび、現代世界の分析に欠かせない問題になっています。

      その影響は各国、まだら模様ですが、何よりも米国主導であることも確かで、ここで儲けているのは一体誰かを考えれば早い。
      世界の富を米国が吸い上げ、加え、世界の混乱で潤うのは結局は米国(軍事、武器、軍産)。

      そうしたパースペクティブにまで射程を合わせないといけないのかも知れません。
      スティーヴ・ジョブズが始めた事業も、まさかネオコンに繋がっていくとは到底思えないものの、結果としてそうなっているとすれば、なんてこった・・・。

      ・・・” Co” は 「合」ですか、なるほど。面白いです。
      ラテン語からでしょうか。

  • Common Community 「Com」「共」も同様。「インド・ヨーロッパ祖語」に英語と漢語に同じ音と意味があることをみつけたのは言語学者大和田洋一郎氏。
    ジョイントシステムの研究をしていて言語意識からくる質、クオリアがどうも同じでは内科と。
    1972年頃、ITC International Typeface Com.NY が、日本国内では50社ほど抽出し、フリーで開発レポ・書体サンプル Paperをグローバル配信、国際郵便が5ー6年続きました。写植全盛からFontの時代へ移行する前に、著作権・版権、文字の囲い込みが起き、集約されてデジタル化への変換ビジネスを制覇。切れ目無く、PC化・IT 、internet, SNSの構築。タダで利便性を与え、気づかせさせない次元のハイド伽です。やはり文字を制するものが歴史文化を握る。メソポタミア・エジプト古代文明が顔を覗かせる昨今、パースペクティブに観ることに加えて鳥瞰できるのも9000年のタイムトラベルの位置ページでしょう。
    意図するものなくば存在せず。センサー次第ですね。

    • 言語学は良く分かりません。
      大和田洋一郎氏の説は記号学でのシニフィアン、シニフィエという概念と対立するかのように感じ取れますが、「英語の正体は、漢字」という話には魅了されるものがあります。

      ところで・・
      Computerも”Com”ですね。
      単なる計算機という意味を越え、情報のジョイント、共有までを指していると言うわけですね。

      >文字を制するものが歴史文化を握る
      全くその通りだと思います。
      書かれたものだけが有為なるものとして歴史に刻まれるわけで、これをネイティヴの共通言語として取り扱う民俗、国民国家が覇権を握る。

      現代世界の共通語が米語(英語)であるのも、パックスアメリカーナを象徴するものと言うわけですね。

      >ジョイントシステムの研究をしていて言語意識からくる質、クオリアがどうも同じで・・
      理解が及びませんが、面白そうであることは、なんとなく 

  • ジョイントの物象を観ていると何かが生まれ、増殖するプロセスには、結合・接合・接続・共同・協__など同じものが潜みます。発生してくるは同じところですね。

    聖地が同じ塲所という偉大な宗教がなぜひとつにならないのかを考えたら、分離すれば生活維持が安定して繁栄、危ういことがでてくるのも人が運営の主役だからでしょう。 枘は臍から来ていますがどちらかが出っ張り凹む。解釈しだいでおもくろくなります。 キコル禅哲ABE

    • ジョイントの深淵

  • エイプリルフール? ではなく
    エブリダイフールです。ロンドン鉛ですが。

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