工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

3.11が巻き起こした、新たな社会運動と「風化」

昨夜のエントリ(4年目の3.11に思う)を読み返してみたが、どうも隔靴掻痒の感が否めない。
これは3.11を巡る大状況のあまりの過酷さ、日本社会の深層をまるごとひっぺ返すほどのものであったことから、原稿用紙わずかに20枚ほどの分量で語れるわけも無いことも、確かにあるとは思う。

2011.03、石巻市雄勝町

2011.03、石巻市雄勝町

しかしそれだけではもちろんないね。
私自身の切り口、視座、抽象化、普遍化、そして個別具体的な光景への言及、文章化の弱さなんだろうと、我がことながら滅入ってしまうよ。

本人にしてそうなのだから、読者にしてみれば迷惑極まりないわけだw

これを埋め合わせる意味では無いけど、少し追補的に進めていく。


3.11をめぐる大状況の中にも、救いが無かったわけじゃ無い。
震災直後から澎湃として沸き起こったボランティアという名の、社会を揺り動かすほどの勢いを持ったムーブメントのことである。

自身の財布から支援物資を買い集め、周囲の人々に訴え、資金を募り、被災地現地へとわが身を省みずに救援の手を差し延べようと馳せ参じた人々の圧倒的とも言える数、数、数。

もちろん以前からも様々な災害において、同様の動きが見られたわけだが、ただ3.11においては、被災地へ馳せ参じた人々のその規模、あるいは全国各地で被災者への受け入れ態勢が組まれるなど、次元の異なる運動体がわき起こり、社会現象にすらなっていったことは特記されて良い。

これは福島第一原子力発電所過酷事故というものを含む、歴史的な規模での激甚災害であったことを背景にすることからのものであり、過剰にこの現象を評価するのもどうなのかなと思わないわけでも無いのだが、しかし、とかく社会性が希薄だと言われてきた若者たちの決起は、そうしたさしたる根拠の無いイメージを払拭させるものとして、喜ばしい事象であったことも確かだろう。

いわば新しい社会文化というものが生まれてきたわけで、私もここに、日本社会への新たな希望と、未来への夢を描くことができるのではと思わされたものだ。

いくつかの特筆すべき事があると思うし、紹介しきれないが、2つほど取り上げてみる。
学生として被災地にボランティアに馳せ参じ、その後も頻繁に継続して現地活動に専心し、卒業後は、被災地へ常駐しての支援活動を継続すべく、NPOを起ち上げたりと、人生そのものとして支援活動に取り組み始めた人も少なくない。

また、福一、放射線から遠ざかるべく、西へ西へと逃げ延びながらも、結局は様々な理由から、福島へ戻る親子は多かった。
しかし、福島一帯では外遊びができない、あるいは友達と散り散りになってしまったため、孤立化を深めていた子たち。

こうした親子を全国各地の有志らが受け入れるプロジェクトが数多く起ち上がり、鬱屈としがちな子らに、息抜きの場と、揺らいでしまった大人への信頼を取り戻す時空として活用されるなど、これまで無かった重層的な支援活動が展開されるといった、活気ある動きは刮目されるものだった。


被災地現場での活動スナップ

被災地現場での活動スナップ

ボランティアの話に戻る。
私も3.11直後から、どうしたものかと考えあぐね、うちで修行していたホリちゃんの「現地に行ってみたい」とのひと言で、被災地現場へ向かうことを決め、このBlogで決意の程を記し、支援を呼びかけるという経緯だった(こちら)。

こんな呼びかけにどれほどのものが集まるのか皆目見当も付かなかったが、同行したいという意志を示してきたのが1人。
支援金をカンパしたいと届けてくれたのが、20名を越える人々。
中には10万円を越える金額を届けてくれる人もいたりと、想定を超えるものがあり感謝に打ち震えたものだった。

他にも支援物資を届けてくれる人も多く、その内容も実に被災者に寄り添ったものが多く、今そのことを思い出すと、涙してしまうほどにありがたいものだった。

ボランティアセンター、野営基地の朝

ボランティアセンター、野営基地の朝

一方、木工関係者の中からも、あるいはメディアもそうだったが、どうせ足で惑いになるだけだから、行くべきじゃ無い、軽挙妄動だ、などと、全く腰が引けた状態で、こうした私たちの行動にブレーキを掛ける物言いもあったのは残念なことだった。

しかしこうした抑圧的な物言い、同調圧力にはほとんど影響を受けることはなかった。
まだかまだかと、支援の手が届くのを待っている大勢の人たちがいることだけは確かなことであったし、それに加え、蛮勇を奮って、という気持ちの高ぶりの一方、往復の旅程、現地活動態勢、野営態勢、等々、万全の態勢で臨むための準備は怠らなかったからだ。

現地情報の少なさ[1] があったとは言え、メディアの悪しき情報に振り回された影響もあると思うけれども、被災地外の一部の人々の冷たさというか、思考停止状態というものは被災地との断絶を象徴させるものであったと思う。

そして、4年を経、今、「風化」という現実があるとすれば、それを促しているのは、「スケジュール通りに復興は進んでいるので、何も心配すること無い」とする政府主導のキャンペーンであり、無謬神話的にそれを信じ込もうとしている圧倒的な数の人々の層なのだろうと思う。
そうした現実があることも事実だろうし、それが世の中というものでもあるわけだ。


野営基地での夕餉

野営基地での夕餉

私自身、3.11後の4年という時間の経過は、様々なことが重なり、大きな転換点にもなったりと、被災地、福島を顧みる機会は少なくなっていったことは否めない。

3.11旬日後からの緊急災害ボランティアの他、8月から翌年に掛け、福島市周辺での山田國廣先生が主導する「除染プロジェクト」に参加させていただくなど、業務そっちのけでの社会活動の日々が続いたものだったし、加えて脱原発の運動に積極的に参加するなど、ポスト3.11もめまぐるしいほどの日々が続いた。

しかし、私は家具職人としてのベースも確固として維持していたし、そこを抜きには何も考えられないので、そのバランスは難しいものがあったことも確かだった。

そうしたバランスとして、個展も開き、あるいは工房移転させ、新たな拠点を設けるなど、多くのことが目まぐるしく展開していったものだ。

そうした過程での「風化」は、やはり否めないところがあることも確かだろう。
こうして、3.11から4年という原稿を上げるのも、自らの「風化」を押し留め、抗う試みであるのかもしれない。

そして、なお、ポスト3.11状況の過酷さは、これからも変わらずにあるということは、銘記しておかねばいけないことだ。
福島第一原子力発電所の過酷事故の後始末は、今後40〜50年もの長期にわたることも確かなのだから。
いやむしろ、これから、より一層過酷になっていく領域もあることは念頭に置いておきたい。


最後になりましたが、この3.11緊急ボランティア活動へ、多額な義援金をお寄せ頂いた方々、様々な心温まる支援物資を届けてくれた多くの方々、そしてこのBlogを通し、励ましの言葉を掛けて頂いた皆さん、あらためて感謝を申し上げます。

ここでこのような記事を上げることができるのも、皆さんの励ましと支援の力があったからこそでしょうね。
そして、恐らくこうした支援の暖かい心をお持ちの方々は、「風化」とは無縁であることを信じていますし、今後も変わらぬ関心を寄せていくだろう事も理解している積もりです。

一歩前に進みましょう。東北の方々とともに。

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❖ 脚注
  1. 現地への通信手段は断絶した状態。宮城県のボランティアセンターまで繋がるも、その先は、彼ら自身掴めていない状態だった []
                   
    
  • あの時、悠さんらの蹶起に賛同し、思わず(笑)義援金を贈った者です。
    (いつもブログ拝見しています)
    もう4年も経つのですね。
    私も風化しがちな日々を送っていますが、翌年には主人と2度ほど被災地にお邪魔し、支援活動のお手伝いらしきものをしてきました(半分は観光なのですけど)。
    やはりそこにいかねば見えないことも多く、多くのことを学びました。
    これも悠さんらの活動のおかげです。
    今後も無理せずにがんばってください。

    • K子さん、その節は大変お世話になり、ありがとうございました。
      現地に入られたようですね。
      どのような支援だったのか分かりませんが、被災者と繋がることで、
      初めて気づかされたり、教えられることもあったろうと思います。
      今後も息の長い支援、復興への長い道のりがありますが、
      弛まず、怯まず、日常生活の中でも繋がることのできる振る舞いもあると思います。
      希望を捨てずに歩んでいきたいものですね。
      この後、メールします。

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