工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

神奈川県立近代美術館 鎌倉館の閉館を前に

神奈川県立近代美術館 鎌倉館 最後の企画展

神奈川県立近代美術館 鎌倉館 最後の企画展


暖冬とは言え、まだ観梅には少し早い先頃、鎌倉を訪ねた。

「神奈川県立近代美術館 鎌倉館」が主目的。
私はこれで3度目の来館。
前回は確か、この美術館を設計した坂倉準三をテーマにした企画だった(『建築家 坂倉準三 モダニズムを生きる|人間、都市、空間』2009年)。

神奈川県立近代美術館だが、この鎌倉館には徒歩数分の場所に「別館」があり、また少し離れた海辺には「葉山館」という白亜の美術館がある。
私はここには過去1度、ジャコメッティー展があるというので、何をおいてもこれだけは逃してはならじとばかり、駆けつけたことがある。

もちろん、哲学者然とした佇まいを見せるあの極限まで肉体を削ぎ落としたフォルムの立像をはじめとする期待以上の内実は圧巻だったが、夏の強い日射しを受け、海にせり出すように建っている白亜の美術館は強い印象を残したものだった。

鎌倉館

神奈川県立近代美術館 鎌倉館

神奈川県立近代美術館 鎌倉館

さて、鎌倉館、この1月末日を持ち、閉館となる。
1951年に建立。その後66年間という月日で老朽化も進み、立地する敷地が鶴岡八幡宮という国指定の史跡であることで、建て替えもままならず、この1月末で閉館を余儀なくされ、更地にして鶴岡八幡宮に返還の方針だった。

しかしところが、日本建築史における戦後モダニズム建築の代表作の1つでもあり、日本建築学会などから建物の存続を求める要望書が出されるなど、その保存を求める声に応え、耐震工事を施した上で、鶴岡八幡宮の施設として活かされるようになったそうだ。

それはともかく、鎌倉館の閉鎖とあっては、今1度観ておかねばと思い、友人夫婦と共だって出掛けることになった。

松も開けた週半ばのある日、車を走らせ、辿り着いたのが11時頃、既に多くの人が押し寄せ、観覧の前の期待に胸膨らませ、楽しげに列を作っていた。

神奈川県立近代美術館 鎌倉館では閉館を控え、昨年4月から開館以降の企画展を振り返り、3期にわたり展覧会を開催してきている。
今回は本当に最後の企画展になったというわけである。

3期はそれぞれ、年度ごとに分けられ、遡行する形での開催になっていて、今回は「鎌倉近代美術館」誕生ということで、

「鎌倉近代美術館」の、構想・建設から1965年までの草創期の活動を、当時の企画展にちなんだ所蔵作品や写真・資料とともに紹介

といった内容。事前のリサーチもせずに出掛けたので、展示作品それぞれインパクト強く迫り、戦後間もない時期のモダニズム絵画の背景にある画家の開放的な絵心を思い遣った。

古賀春江のシュルレアリスム絵画はいかにもそうした時代潮流を典型とするものなのだろう。

敗戦の混乱期で画材の調達にも困難を極めただろうし、一方で戦後復興の希望にあふれた社会の空気を感じ取り、未来社会の明るさをキャンバスに描き込んだ画家も多くいたはず。

あるいは戦時中の大政翼賛会の時代の潮流に流され、戦争賛美の絵を描き、集中批判を浴びたこともあっただろうが、芸術行為というものは、そうした心性の捻れ、作風の転換なども、より高みへと向かう契機にしていくものなのかもしれない。

時代の転換期という特異な社会状況というものは芸術行為の大きな飛躍の時期でもあるわけだ。

別館での出逢い

混雑する本館を後にし、北鎌倉へと続くだらだら坂をそぞろ歩き「別館」を訪ねた。
この「別館」は当地域で活躍した工芸家、あるいはピカソなど著名な芸術家の工芸作品を重点的に陳列している。

やはり目に付くのは北大路魯山人の作品の数々。
この鎌倉・山崎に星岡窯(せいこうよう)を築窯し、作陶活動に専念したことはつとに知られたことだが、信楽の大壺など数点が展示。

異色なものとして砂澤ビッキさんの抽象木彫があり、妙に懐かしく思えた。

またファサード正面にはシャルロット・ペリアンの児童の絵による大きなタペストリーがあり、彼女はこんなことまでしていたのかと驚かされる。

そんな中にあって、私を釘付けにさせたのは、会場中央に屹立する古備前の大壺もそうだったが(金重陶陽から魯山人に贈られたものだという)、しかし何よりもイサム・ノグチによる広島原爆慰霊碑のためのモックアップだった(画像は撮影不可のためありません、ネット上を探しても同じものはありません)。
40cmほどの小さな石膏だが、上半分は現・原爆慰霊碑と少し似た形状。

これには曰くがある。1955年の広島平和公園設営の際に公募された「原爆慰霊碑」にノグチのデザインが選ばれたのだが(主プロヂューサーだった丹下健三が推したという)、残念ながら陽の目を見ることは無かった。

原爆を落としたアメリカの血を分けたイサム・ノグチを選定するのは如何なものかとの批判が沸き起こり、却下となってしまったのだ。

私見では、イサムノグチの慰霊碑は、一見して確かに丹下の現慰霊碑と造形的に似ていなくはないけれど、しかしその量感、力強さに全くの違いが見られる。

代表作《エナジー・ヴォイド》が発する強力な訴求力と同系列の志向をみることができるし、彼自身が残した「われわれ全てが大地へと帰るための記念碑」と語っているように、この逆U字型は接地部分から深く地下へと延伸され、その地下部分は「子宮」に模したとも言われている。(参照Webページ

こんなところで、イサム・ノグチの慰霊碑モックアップと出遭うとは・・・、それだけでも鎌倉に来た甲斐があったというものだろう。

ところで、なぜこの鎌倉の美術館にイサム・ノグチの作品があるのかだが、北大路魯山人との交流が深く、共に陶芸を楽しんでいたようで、さらには2つの祖国という自らの境遇に近いものを感じたのか、山口淑子(李香蘭)と結婚し、そのふたりの居を定めたのが、星岡窯敷地内だった縁によるからである。

残念ながら、今では星岡窯そのものも無く、この美術館に痕跡を留めるのみだ。

帰路

長谷寺

長谷寺

本館、別館、併せて2時間ほど過ごし、お昼を大きく廻っていたので、観梅の期待を込め立ち寄った長谷寺の近くで丼物を頂く。
長谷寺では紅梅や早咲きの白梅が咲いてはいたものの、寒々として首をすぼめてしまうほどだった。日照条件が良くない立地だからなのだろうな。
寺の建造も鉄筋だしね。

ただ、湘南の海を遠望できたのは良かった。
はるかに房総の山影がほの見えたものだ。

江ノ島サンセット

江ノ島サンセット

右画像は江ノ島に渡る橋の欄干から海へのサンセット。


参照

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 先生、ご無沙汰しております。先日、こちら京都でも、前川國男設計の京都会館が、姿を変えてしまいました。少し肩で息する毎日ですが、いつも疾走される仕事
    とても、勇気いただいております。

    • 《前川國男》・・・出ました。
      ル・コルビュジエ事務所では坂倉準三の先輩筋。
      当時はきら星の如くにすごい建築家が活躍した時代だったのですね。

      〈京都会館〉という名称は遺ったようですが、
      通称〈ロームシアター京都〉、って言うのですね。
      最近流行の冠付き名称。

      存続を巡っては、ICOMOSとのやり取りを含め、いろんな事があったようですね。
      やはり公共建築というものは、その地域の市民らにとっての共有資産ですので、所轄官庁は建築関係者とともに市民との議論が欠かせません。

      また京都に出向くことがあれば、ぜひ訪れてみたいものです。

      >いつも疾走される
      とんでもないですよ。

      老いさらばえた心身を引きずり、疾走ならぬ、駄馬の如くであります。
      コメント、ありがとうございました。

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