工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

マホガニーの講壇(Pulpit)2

前回に引き続き、少しディテールなど。
ただ、制作途上は時間的余裕も無かったことから、写真撮影は限られたものしかありません。

講壇本体

まずは講壇本体の背部からのショット。
駆体内部は棚が1枚。
机面はA4サイズの書見台の他、左右にマイクロフォンを置くスペースほどの広さで設計。
下はフリーな空間。

マイクはワイヤレスを使うという仕様で、本体への穿孔はありません。

最上部の〈〉状の枠ですが、ここは1枚の板を成形し、正面、側面を留め結合。背部はDominoを用いた枘の仕口。

その下の枠は傾斜させての留め結合です。
この留め部分、最初はうっかり正45度でカットしちゃったのでしたが、これが大間違い。
傾斜での留めの勾配は、規矩術による計算が必要とされますね。

留めはZeta P2などで堅固に接着させています。

こうした傾斜での枠構成ですが、設計段階ではお気楽に楽しく描けますが、いざ加工する段階となると、頭を柔軟にさせ、それまでの経験を総動員しつつ、慎重に挑まねばいけません。
また挑まずに容易な手法を選択すれば、その後のデザインの拡張も、技法の練達も閉ざされてしまうだろうことも明かですね。

台輪

上の写真の背部に台輪の断面が顔を出していて、その構成が視て取れるかと思います。

大きく迫り出しているところから、決して安易なものでは無いことはお分かりかと思いますが、内部の見えないところで、かなり補強材を施してのものとなっています。

台輪

右は組み立て前の写真ですが、これは仮にビルトアップさせてチェックしてるところです。
凸型ということでかなり複雑になりますので、慎重に加工を進めて行きます。

またこれらの接着、組み立てですが、凸形状ということで、締め付け力を適正に与えるため、それに合わせたジグを前もって作り、所与の角度などが変形しないような準備が欠かせません。
正直、留の剣先を隙間無く合わせ、接着する工程は思いの外大変な作業でした。

書見台

マホガニーの枠にローズウッドの机面
ローズウッド部分が黒く潰れていますので、クリック拡大してご覧ください

Topの板面のローズウッド。少し精緻に展開張りしています。
20年ほど前、かなりの品質のローズウッドを1立方ほどの材積で手に入れることができたのですが、この中でも良質な柾目部分を突き板に加工し、これをベニアリングし、保存しており、これを用いての制作です。

突き板ですので、硬質で柔軟性に欠けるローズウッドのカットは難しく、切れ味の良い丸鋸で、ゆっくりとカットします。これをマホガニー柾目で用意した枠に落とし込み、プレス。

とても綺麗ですね。

枠のマホガニー材ですが、左の枠材の照り返しの木理をご覧いただければと思いますが、こうした木理が真正マホガニーの1つの特徴です。
なんちゃってマホガニーではこうした木理は表れません。

なお、こうした交錯木理が基調になった同類の材種がありますが、マホガニーとは異なるものでサペリという樹種になります。

真正マホガニーはとても硬質で、緻密で、そして均質な木理を持ちますので、次ぎに述べる透かし彫りのような細かい細工にも破綻が無く、良く付いてきてくれます。

糸鋸加工

写真は書見台を支える脚部を糸鋸での透かし彫りしているところですが、この後、切削面をヤスリなどで整え、さらに坊主面などを施し、仕上げます。
文字の書体も良く考え、ふさわしいものを目的的に選択すると良いでしょう

因みに、このフォントはカリグラフィー的な趣を持つ〈Lucida blackletter〉です。
昔は転写紙を購入しては、これを貼り付けるなどしていましたが、Macがあればどんな書体でも出力できますのでありがたい時代です。
私はグラフィックデザイナーではありませんが、Macに標準格納されていない書体でもこれぞと思う書体はためらわずに購入し、使っています。

hr

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 身体記憶を文字にするのは膨大な作業になりますから
    相対でないと伝わらないコトバの抑揚・場の雰囲気
    混濁しているようなモルトを濾過、精製すれば
    のどごしはよく、雑味野生を消し滑らかに
    削ぎ落とされてライブ原体の力は薄まり
    上手にまとめる評論家マズナマ体に
    整えばもてはやされめでたし。
    角がとれえてまろやか老成
    めたくた騒然カオスに
    フラクタルの極み
    はずれよたる
    かぶくこと
    バランス
    枢要の
    時代

    木理座の総取組厄AB

    • 作り手があれこれ講釈語るのも如何なモノかとの、自戒は持たねばいけません。
      日本における「和をもって尊しとなす」も一知半解なところがあり、他者の作品への評価を表現することへのためらい、後ろ向きの姿勢は、ぬるさゆえに仲間内の繋がりをふわっと包む込むものではあっても、閉ざされた世界から一歩もで出ず、その作者にも、周囲にとっても、真の意味での強さへのステップにはなりません。批評性無きところに進化も産まれなければ、良いモノ作りなどありません。
      加えてインターネット世界が社会インフラへと普及、充実し、堅固なモノになる反面、様々な弊害が指摘されているように、インターネット本来の自由で開かれたメディアという特性を生かしきれていない歯がゆさがあります。

      自由で闊達な交流の場として機能していないのは、表現の拙さだったり、作風が持つ力の無さだったり、私自身の責任に帰すところが大きいわけですが、アクセス数が以前のコメントが押し寄せてきた頃とさほど変化の無い状態を視れば、やはりネットへの接し方がかなり変わってきつつあるのかなとも思えます。
      例えこのような状況であろうと、少なく無い数の読者の期待が奈辺にあるのかはともかくも、弛まずに記事を上げていくつもりですし、手厳しいコメントにも向き合っていく積もりです。

      また、私は忙しい業務を縫っての投稿作業という環境から、Blogにも必ずしも十分なメンテナンスもできていません。
      直接的にその作業から報酬が産まれることもないわけですし、コメントという反響の指標も極小であれば、意欲を掻き立てるのもなかなか困難という実態もあります。

      そんなところからも記事の推敲もハンパなものでしか無いのですが、キャリアの木工家の一人として、精度の高い、有益な記事を上げられるよう、さらに一層努力しなければいけませんね。ネット上のゴミ溜めと揶揄されるようではオシマイですので自覚的に臨んでいきたいものです。
      それはただひとえに、この社会への信頼であり、インターネット世界の自由で開かれた社会を少しでもあり得べきものとして積極的に関わっていく使命のようなものでしょうか。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.