工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

バンクーバー五輪の楽しみ方(Sustainability)

冬季五輪が始まった。
大いに盛り上がって欲しいとの思いとともに、このスポーツの大イベントを競技だけはなく、五輪そのもの、まるごとを考えるようなきっかけになれば良いなと考えている。
今回のテーマは、”With Glowing Hearts.”だそうだ。
スポーツそのものの快楽は五輪に限らず誰しもが純粋に、あるいは単純に体感できるものであって、これは自分で行うのも、観戦するのもそれぞれに楽しむことができるものだが、五輪ともなれば世界のトップアスリートらによって、またあらゆる競技で競われるので、そこにはまさに祭典としての快楽があるから格別だ。
ただこれが残念なことに国家間のメダル争いのようなものとして矮小化されたりすることに、どうしてもボクはなじめず、鼻白んでくることが屡々。(これまでの関連する記事、その1「スポーツの祭典の楽しみ方」、その2「北京五輪の憂鬱」、その3 「北京からの風」
今回の開催式も北京に負けずにど派手な演出で、相当の資金が投下されたことだろうと察せられるが、今大会までは、確か前IOC会長、サマランチが仕切ったものなのだが、実質的には次のロンドン五輪からジャック・ロゲ会長の指揮下で運営されるはずなので、様変わりする可能性がある。
そもそもアスリートらの伯仲した争いというものは国などと言う属性に無関係に大いに楽しめばよいのであって、その結果自身が帰属する共同体、地域、国の者が活躍すれば、自分のことのように喜び、拍手を送れば良いだろう。
さて、今回の開催都市はバンクーバーという北米カナダにある都市。
北海道、室蘭より緯度は高いそうだが、温暖化のせいなのか、比較的過ごしやすいようで、例えばこの静岡の御殿場ほどの気温なのだと言う。
競技ではボクはスピードスケート、男女のフィギヤスケート、なども楽しみだが、アルペン、皆川の滑りがどうかワクワク、ドキドキするね。
ところで関心が向くのが、このバンクーバーの先住民たちが、五輪開催に深く関わっているらしいとの話の方だ。(カナダ国内では「ファースト・ネーション」[First Nations]と呼称されるらしい)


今日の開会式にも色鮮やかな民族衣装に身を包んだ、4つのファースト・ネーションたちが正式パートナーとして運営に関わっていることが世界に知られたことと思う。(五輪史上、先住民の正式参加は初めてのこと)
1時間を超える選手入場行進中ずっとパフォーマンスをしていたが、さぞ疲れただろうね。
会場外では開催そのものに反対する人々の抗議デモもあったようだし、先住民の中にも反対するグループがあることも確かなこと。(REUTERS
しかし今回のバンクーバー五輪の精神「サスタナビリティー」、つまり持続可能性をもう1つのテーマとして掲げているのは、単に「環境保護」への配慮だけではなく、先住民族の参加を大きく位置づけていることにかつてない志を見ることができるように思う。
かつて日本でも2度冬季五輪が開催されたのは周知の通り。
最初は札幌だったね。後に日の丸飛行隊と言われた、あのジャンプでの日本勢の表彰台の独占。「銀盤の妖精」ジャネット・リンの活躍など覚えている人は50代以上の年代かな。
これが現在であれば、当然にも北海道の先住民であるアイヌ民族とどのように関わるのか、ということは関心対象外とするわけにはいかないだろうね。
当時は全くそうした視座は無かったように思う。
そもそも未だに「日本は単一民族」などという誤った「定義」をまことしやかに語るアホな政治家がいるほどだが、二風谷ダム建設を巡る裁判では、アイヌ民族は先住民として固有の民族である事が判決文にも示されたり、日本政府は国際人権規約に基づく国際連合への報告書に、同規約第27条に該当する少数民族としてアイヌ民族を記載していることからも明らかだからね。
当然にも先住民の土地を使って開催される五輪であれば、彼らを積極的に参画させ、ともに祝えるような開催要項を策定しなければならなくなるだろう。
それが現在の人権を考えるときの世界的に共有されたな基本的認識だ。
国内メディアではこうした視座を提供することは皆無に近いと思う。
ところが、今朝の朝日新聞には鎌田遵氏による、とても良い投稿があった。
「私の視点」というオピニオン欄に「五輪と先住民 ─ 求められるのは理解と尊重」とタイトルされたものだが、ネットからは拾えなかったので、ぜひ新聞をご覧いただきたいと思う。
この鎌田さんというのは、最近精力的に執筆活動を行っている碩学の方なのでご本を読んだ方も多いのではないだろうか。
「辺境」の抵抗―核廃棄物とアメリカ先住民の社会運動
ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)
ぼくはアメリカを学んだ (岩波ジュニア新書)
バンクーバー五輪の公式サイトには当然にも、この先住民の項目があるので、関心のある方はぜひ機械翻訳でも良いので、ご覧になって欲しい。(Vancouver 2010・Aboriginal Participation
先月のカリブ、ハイチ大地震の地も「征服=コンキスタ」された「死の島」(原住民絶滅)だが、あの広い大地の北米の地も欧州からの白人たちが侵略し、先住民を迫害し(ジェノサイドを含む)築き上げた新天地なのであって、そうした歴史に向かい合うことなくしては、今の繁栄の謳歌というものも彼らを排除させたままの状態ではあまりにも傲慢に過ぎはしないか。
もし、五輪というものが今後国際的に意味のあるものとして継続開催されるものであれば、「スポーツを通じた国際親善を掲げる平和の祭典は、先住民族の歴史にもあたたかい光をあてる、真に豊かな社会を目指す契機になってほしい」(鎌田遵氏の朝日新聞投稿、結語から)とつくづく思う。


* 追記〈スノボ、国母クンProblem〉(02/14)
あ、それとスノーボード男子ハーフパイプ日本代表の国母和宏クンの腰パンが大きな話題(問題?)になっているというので驚いた。
4歳で始めたというスノボ。11でプロ資格。14でUSオープン日本人初の2位。最近ではいくつもの国際タイトルをもぎとる天才的アスリート。
腰パン、ドレッドヘアに鼻ピアス、サングラスという出で立ちへの抗議が殺到したのだという。
ボクに言わせれば、あのようなスタイルは若者の好むものらしく街中に行けばどこにでもいるので、さほどの違和感があるとも思えない。
(パンツをずり下げてやろか、などと衝動に駆られることもあるがね 笑)
もっと言えば、スノボなどというスポーツはHip Hopのアメリカ文化とともに発展してきたものだろうと思うし、スケボ世界ではあのような格好は極めて“普通”なのかも。
国母クンのこれまでの世界的大会も同様の出で立ちで好成績を収めてきたのであろうし、決して五輪だからと言って「キメタ」わけでもないだろう。
抗議する人たちが喜ぶような服装、スタイルなどではスケボなんてやってらんない、ということなのだろうね。
そうした選手を選考しておいて、いきなりのダメ出しはちょっとね。
体育会系といえば、日本では軍隊式の上下関係、坊主頭に象徴される出で立ち、というのが通り相場だが、ボクはこっちの方が気味が悪いと思うよ。
またボクが感心するのは、五輪だからと言って彼にとっては他の大会と大きく異なるものと位置づけているのではなさそうなところ、つまり五輪大会を相対化させているところも“新しい青年”という感がする。
あれこれうるさく言うのであればさっさと帰ってくれば良いのだよ国母クン。
でも競技の方は、さすがの彼もこのすったもんだでやりづらくなっただろうね。
メダル候補であることは誰しも認めるところだが、影響なしとはしないだろう。
ちょっと記者会見の席上では応対が子供じみていたのがまずかったが、元気を出してパイプの上では格好良く決めてよ。
日本国内の“世間”からのナンセンスなノイズなどに振り回されずに、良いパフォーマンスで見返してやってもらいたい。
「選手団長として、わたしがすべての責任を負う」という条件で、国母に選手としてのパフォーマンスを発揮する機会を与えてほしいと訴えた。「スタートラインに立たないままに終わるのは、逆に無責任だと判断した」
との橋本聖子団長の英断には拍手 だね。
やれやれ。
* 参照
■ バンクーバー五輪公式サイト「Vancouver 2010 Winter Olympics」


最後に週末でもあるので、五輪開催中はカナダのミュージシャンでも楽しんでいただこうと思う。
まずはやはり大御所、レナード・コーエンさんからいきましょう。
この曲のオフィシャルなビデオクリップは、幾組もの老カップルのダンスシーンで構成された異色な演出だが、今日はそれは止めて、Liveバージョンから。
二人の女性に挟まれてご機嫌な老紳士。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 腰パンにドレッドヘアと鼻ピアス。
    会社の昼休みにTVで彼を見た時、隣りでお弁当を食べるオジサンに
    「何がいけないんですか?」と聞いてしまいました、私。
    意外なことにこの件に関して
    20代からは「日の丸を背負っているんだから言動には責任を持つべき」、
    サラリーマンのオジサン達からは「いいんじゃないの?若いんだから!」
    という声が聞こえているそうですヨ。笑

  • サワノさん、職場のオジサンの受け答えはどうだったかは書かれていませんが、あなたの衒いのない言葉に肯くしかなかったでしょう。
    若者はいつの時代も親を乗り越えるような進取の精神に富んでいるものです。
    それが次の時代を作るエネルギーとなっていくのですよね。
    既成概念への疑いのなさ、国家と自分の距離の取り方の不健全さ、こうしたことは一般には保守化と言います。
    若者が保守化しているというのは、これまでどの社会にも、どの時代にもなかった傾向ですが、これが日本の衰退傾向の表象でなければ良いのだがと、ホントに危機感を覚えてしまいますね。
    困ったものです。

  • 先日、サッカーの東アジア選手権の日韓戦の開会式で気が付いたのですが、日本代表の選手達全員、君が代を歌っていましたよね。記憶によると、中田ヒデが現役の頃は、歌う、歌わないは半々だったような気がします。当時、歌わない選手はそれはそれで許容されていたように思いますが。若者の保守化、右傾化といわれますが、糸井重里氏が言う「不確かな正義」にみんなが怯えているような気がします。
    最近とても気になるので数年ぶりにコメントさせていただきました。

  • 国母クン問題の本質は、彼が自覚的であったかどうかは無関係に、絶対的存在としての五輪を軽やかに相対化して提示してみせたことが、既存の価値概念という虎の尾を踏んでしまったことにあるのでしょう。
    スポーツとは本来個人的な営為ですが、帰属するネーション(国家)の代表として出場する国際競技ではそのフレームに押し込まれてしまい、選手によってはそれを息苦しく感じ、本来のパフォーマンスが出しずらいということも出てくるのではないでしょうか。
    国母クンは既に10代の頃から国境を飛び出し、世界的トップアスリート達とともに各国を転戦している若者です。(金メダリストのWhiteクンは自分の最大のライバルはKazuだと公言しているほど)
    恐らくは彼は日本代表としてそれらを戦っているという意識は希薄で、あくまでもKazuという一人のスケートボーダーとしての強い自意識を持っている男で「日本代表」という枠はせせこましく感じたのでしょう。
    このネーションという枠組みでの国際競技では時としてナショナリズムに染め上げてしまうことがありますね。
    いわばスポーツが戦争的行為の比喩のようなものとして顕れるというわけです。
    そうしたコンテクストで考えますと、サッカーの国際試合前に流される国歌を歌う、歌わないということはすぐれて個人的な思想、信条に係わる領域の問題ですのでね。
    日本の国歌の場合、15年戦争だけでも内外合わせて2,300万人もの死者とともにあったということを無視するわけにないかないということがあります。
    やはりスポーツ競技ではネーションを相対化することで、健全でより高いレベルのパフォーマンスが得られるように思いますね。
    Takumiさん、これからも軽やかにコメントください。ありがとうございました。

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