工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

バンクーバー冬季五輪大会を終え(メディアから考えた)

五輪という名の祝祭が終わり、こうして日常に戻ってみれば、あの騒ぎは一体何だったのだろうかとの感が無くもない。
今日(こんにち)の我々を取り巻く情報というものは、デジタル社会となってそれ以前の数倍、いや数百倍の怒濤のような洪水として押し寄せてきている。
家にいるときはPC、Macの前にドッカと腰を下ろしてのネットサーフィン、移動中はスマートフォンとにらめっこ。
会社に着けばWindowsを起ち上げてメールチェックから業務がスタート。
勤め帰りの一杯飲み屋ではTVから流れる惚けたお笑い芸人たちの狂騒に混じり、訳知り顔のワイドショーコメンテーターによる説教を聴かされ、帰宅すれば家人から「ねぇ、ねぇ、今日テレビでね ……」と芸能界のうわさ話を聞かされ、チリ地震の被災情報も晩酌とともに流され、それら全てが飯とともに消費されていく。
人の噂も75日、と言われてきたが、とんでもない。海馬での保存期間はわずかに数日というところだろうか。
こうしてあれだけ華やかに繰り広げられたバンクーバーの祝典の脳内映像も、外付けHDDから呼び出さないとデスクトップには表れてくれない。
さて、五輪というスポーツ競技最大のイベントが運営できるのも、メディア無くしては語れないことは知っているだろう。運営の資金源が各国TV放送局が買い取る放映権料によって賄われるようになったのはいつの頃からなのかは知らないが、これを最大限に活用させるシステムを作ってきたのが前IOC会長・サマランチであることだけははっきりしている。

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その高額な放映権料のためとでも了解するしか無いのか、と思わされたのがNHKの放送。


会期中はNHKが保有する局、全てが五輪中継、録画放送で占拠されていることはめずらしくなかった。
定時ニュース枠がほとんど全て吹き飛ばされ、五輪報道に埋め尽くされていた。
慌ててBS1、BS2へと切り替えるも、同じ競技であったり、別の競技であったりの差はあるものの、やはり五輪報道。
NHKは他の局と異なり、いくつもの電波を保有しているが、それら全てが五輪で占拠されてしまっているというのはとても正気の沙汰とは思えない、異様な状態だった。
開幕数日後 NHKコールセンターに電話し、通常のニュース枠はいつも通りにやって欲しい旨の願い立てをしたが「承っておきます」というだけで木で鼻をくくった応対でしかなかった。
……やれやれ。
しかし閉幕後、バンクーバー五輪とはいったいどういうものだったのか、といった総括的な調査報道が為されたという番組があったかは寡聞にして知らない。
祝祭が終わり、祭りの後の寂しさを噛みしめる余裕もないままに、苦々しい日常へと戻っていったという訳だ。
日本のメディアから見える文化の受容のされ方というものは、概ねガキっちょ文化でしかなく大人の鑑賞眼、批評精神を揺り動かしてくれるような真っ当な番組構成など求むべくもない、ということ?
ところでNHKが番組作りの模範として崇めるイギリスBBCだが、英国政権の交代劇必至を前にして一大組織改編の波に洗われていると言われる。
既にいくつもの関連Webサイトを閉鎖し、ラジオなど一部の局の閉鎖まで踏み込んでいるらしく、あれだけ質の高い放送を流しながらの縮減への決断は、さぞや悔しいものがあるだろう。
圧倒的な電波支配を縮減すべきはむしろNHKの方だろう。
3波も4波も五輪同時中継をやってほくそ笑んでいるなんていうのは有限な資産、公共電波の無駄遣いも甚だしい。
さて、NHKへの怒りはここまでとし(苦笑)、

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一昨日だったか、スピードスケートの清水宏保選手の現役引退記者会見があった。
長野冬季五輪の金メダリストだね。
五輪選手で記憶に残る国内選手は数多くいるけれど、ボクにとってはやはりこの清水宏保選手は、アスリートの極北に立つ一人として強い印象を残している。
あの小柄な体躯から繰り出されるエネルギーによるロケットスタートと言われた猛ダッシュは、積極的に取り組んだ科学的トレーニング、そして限界まで追い込む肉体の酷使とともにあったことも明らかで、日々進歩を重ねていることは、当時のTVasahiのニュース番組の久米宏のインタビューで聞かされていたが、あの二人のやりとりでファンになった人も多いのではないだろうか。
今回のバンクーバー五輪・国内候補選定競技にもエントリーしていたが、ライバルとして公言している加藤条治の前に屈するしかなかった。(大きな年齢差のある加藤をライバル視するところが清水選手の立派なところ)
そして、この加藤に苦言を呈する清水選手のコラムが朝日新聞の五輪特集ページに掲載され話題になっていた。(「条治よ 悔しかったか」
他にもこのコラム欄で「スポーツ後進国 日本」、「ヨナ一色 引き込む力」と数回掲載されている。超一流選手として戦い抜いてきた清水選手ならではの辛口コラムであり、またいくつかの提言も含む示唆に富んだものとなっていた。
このコラムでは他にも数名の編集委員が交代で書いているが、いずれも読み応えのあるものだった。
朝日の記者、政治部、社会部は劣化の一途を辿っているが、スポーツではまだ真っ当な批評精神を持つ記者もいるということか。嬉しいね。
因みに件の国母くんの話題では西村欣也編集委員が「息苦しい「魔女狩り」」とタイトルしたコラムを書いている(一部では物議をもたらしたといわれるものだが ……)。
曰く

騒ぎ過ぎではなかったか。まるで「魔女狩り」だった。まず服装問題。日本選手団公式服装着用規定に「日本選手団に認定された者は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない」とある。確かに、国母はドレスコードに違反したかもしれない。しかし、それ以上でも以下でもない。

数年前、大橋巨泉さんと対談をしていて、民主主義の根幹の話になった。彼は思想家ボルテールの言葉をひいて言った。「『君の言うことには100%反対だ。でも、君の発言の自由は命をかけて守ろうと思う』。これが民主主義じゃないですか」
 国母のファッションや言動に、僕も確かに違和感を感じる。でも、それに対して寛容でありたいと思う。価値観の押しつけは息苦しさしか生みださない。

と。
朝日新聞スポーツ欄、バンクーバー五輪、コラムの全てはこちらから

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メディアとは言っても、やはり五輪は新聞ではなく映像メディア、TVだね。
NHK批判はともかかくも、五輪とメディアの関係というものは、あの1936年ベルリン大会におけるレニ・リーフェンシュタールによる『民族の祭典(原題:Olympia)』が画期となったことを否定する人はいないだろう。
言うまでもなくナチス・ヒトラー政権下におけるファナティックなまでの肉体美の修辞に満ちた記録映画であり、それは当然にもナチス党のプロパガンダとして最大限に活用され、その後間もなく国境を越えてポーランドへと侵略を開始していったことは忘れることもできない史実である。
一方また「平和の祭典」として高邁な理念を掲げたピエール・ド・クーベルタン男爵もノーベル平和賞を欲しながら受賞されることもなく、失意のうちにヒトラーの庇護下で余生を送ったという裏面史があることもあまり知られていないが事実である。
今や五輪は数億の民がTV受像器、あるいはケータイモニターの先にいることを全ての前提として企画開催され、結果、巨万のマネー、欲望が渦巻く、極めて現代的な消費社会のターゲットとして成熟してきているものだ。
時としてそれは狭隘なナショナリズムと資本の論理に絡め取られていくのは必至。
一人の比類無きアスリートの強靱な肉体と鍛え上げられた技は、いかに個人のスポーツ選手によるパフォーマンスであるとはいうものの、その意思を超えたところで再定義され、消費されていくのだろう。
今回アジア勢において韓国、中国の活躍の陰に日本選手が甘んじてしまった競技が多かったというのも、上述した五輪競技を取り巻く諸々の属性を考えれば、まさに現今の政治、社会、経済などの勢いの差異が投影されていると視るのもあながち間違いでは無いように思われてくる。
無論、そこには日本社会における幼年期における教育思想の反映があることも確かだろうし、あるいは国母選手へのあり得ないパッシングの嵐に見える屈折しきった社会の在りようからすれば、もっと根が深く、この競技成績の低調傾向はそうそう簡単に乗り越えることはできないかもしれないなと、ただただ悲しくなる。
▼「日本社会における幼年期における教育思想の反映」とは今日の地方夕刊紙(共同配信かな)に掲載された「バンクーバー五輪に思う」という藤原新也氏による一文を指す。
こちらで全文引用されている)
▼および国母選手に関しては「倫理より印象で世間は叩く」という朝日新聞3月4日付けのオピニオン欄の斎藤 環 氏(精神科医)の一文を指す
 → 2ちゃんねるに一部引用
引用は前半部分だが、その後半のポイントだけを次に引用

一躍若きヒールに祭り上げられた国母選手を暴行事件で引退を余儀なくされた元横綱・朝青龍になぞらえる向きもある。
管理すべき人間がちゃんと「しつけ」をしなかったために、かくも「品格」のないコドモが幅をきかすのだ、と言わんばかりに。
そこには構造的な問題がある。大人が叱る前に世間が叩いてしまうこと。「公正」さよりも「気が済む」ことが重視される。
倫理の代わりに品格が持ち出されるという問題。
日本の相撲界への同化を拒否した朝青龍が「横綱の品格」を常に問われたのと同列に、「自分流」を貫こうとした国母選手の服装と態度が悪として叩かれる。
印象だけが重要だから「(態度は)人並みであれ、ただし(成績では)突出せよ」などと無茶なことが平気で言える。
世間は人を罰しない。世間がするのは「気が済む」まで「恥をかかせる」ことだけだ。
家族ぐるみで恥をかかされた人間は「反省したふり」はしても、本当に反省することは決してない。こんな当然のことを、世間=マスコミは忘れたがる

さきに上げたこのBlogでの国母記事とその視座はほぼ共通している。(こちらの追記と、Kazuクン、君は立派にやり遂げた)。
同じく数日前の朝日「声」への投稿の紹介にあった石原慎太郎の五輪選手への屈辱的とも思える悲しいまでの腐った心根を併せ含め考えると、五輪狂想曲の先に見えるものは一体 、、、
まさか1936年ベルリン大会後の世界情勢の再現などと言うことは無いと信じているのだが。
では気分直し。
今回3つめになるカナダからのYouTube、ジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)初期の代表作[Both Sides Now](『青春の光と影』)をどうぞ。(66歳になる今も現役。グラミー9回受賞)

 * 追記
上のビデオは1970年のものだが、1990年のベルリンでのご機嫌なLiveがあったので貼り付けよう。
Bryan Adams, Paul Carrack, Cyndi Lauper, Van Morrisonなどと共演。『The Tide is Turning』

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