工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

“手作り家具”と機械設備(その8)

家具工房における機械導入と制作スタイルの問題

これまで家具工房において設置すべきと考えられる機械について概説してきたが、あらためて確認するまでもなく、こうした考え方の基底にあるのは加工精度を高め、より高品質なものを追求するために欠かすことのできないアプローチであり、同時にまたより生産性を高めるという要請にも大きく応えてくれるものということであった。

BRICs諸国の歴史的とも言えるような台頭と迷走する日本の政治経済による見えない展望という時代の中にあって、国内家具産業の不可逆的とも思えるような低迷はその脱出路を見出せずにいるかのよう。

ボクたちの家具造りを持続的に可能ならしめる方向性はどこに求めたらよいのだろうか。
果たしてどのような選択肢があるのか、いずれも苦しい道筋でしか無いことを承知の上であえていくつかの解答を用意せねばならないと思うのだが、まずは「仕事の質を高めていく」、ということについては誰しも否定しがたいこととして措定せざるを得ないだろう。
この仕事の質を高めるという問題設定への1つの答えがこれまで縷々語ってきたような適切な機械の導入ということになるだろう。

なぜこんな当たり前のことを繰り返し語らねばならないのか。
残念なことだが家具工房によってはそうした機械がまだまだ十分に整備されているとは言い難い現状があり、その背景として仕事の質を高めるという認識の欠如が導入の妨げになっているように思えるからだ。

ところでこうしたBlogを運営していることからか、たまに見知らぬ木工家からメールをいただいたりして、お話しを聞いたり、Webサイトを拝見させていただいたりと、その制作環境であったり、生活スタイルなどを拝見させてもらうこともあるが、彼らの多くは自由闊達で、心豊かな暮らしぶりを伺えることが多いもの。

しかし一方では、機械導入の必要に迫られてもこれが為し得ない理由付けとして、家具工房はビンボウだ、喰えないのに機械なんてとんでもない、などと相互に顔を見合わせて卑屈に語る、さらにはなぜだかこの経済的困窮を自虐的→自慢げに語ったりと、勇躍、今後この世界に入ってこようとする若者の道を閉ざすようなバイアスをあえて強めるような不健全な物言いがネット上などでも散見されるという現実がある。


飲み屋での私的な鬱憤晴らしならいざ知らず、公的空間での物言いとしては、あまりにも無防備で、木工界にどのような影響を及ぼしているのか、時には客観的に見直してみるのも必要かも知れない。

今や世界の美術界の寵児となっている村上隆なども、若く喰えない時代は、コンビニの裏に回って賞味期限の切れた弁当を譲り受け、糊口を凌いだという。
しかし彼はその当時、そうしたことを愚痴として公的空間で語ったことがあるだろうか。
あるはずがない。自身の志を成し遂げるための、受忍の日々として熱き想いを胸に堪え忍んだに違いない。
成功者の語り口として語られるからこそ、意味がある。
ゼニカネ勘定をせざるを得ないのは、この資本主義の世の中に生きる者であるからは避けられない宿命であることなど端から承知のこと。

しかし経済的困窮というものを不健全に流布する前に、自身の制作スタイル、制作品の品質、生産性をどこまで真剣に考えているのか検証してからにしたいもの。
あるいはまた、とっくの昔に自分たちが産まれる前から大量生産による工業化社会を迎えていたことを知らなかったとでも言うのであろうか。いやむしろこれを大いに享受しているにもかかわらず、あえてその生産スタイルから自らを遠ざけ、自身の考えに付き従い独自の道を選んでこの道に入ったオロカ者たちではなかったのか。

ボクは一時話題になった「清貧の思想」(中野孝次 著)はそれ自体、思索的だし、そのように生きられたら素敵なことだとも思うが、しかしあまりストイックさを押しつけるのは如何なものかとも思う。

誰しも快適な生活はしたいだろうし、ボクにしたって快適なMacは持ちたいさ。
経済的価値基準というものから、例え離れられないものであったとしても、もう少し、木工家としての生き方という、ある種のインディペンデントな人生を積極的に位置づけるならば、世相から少し距離を置くことで、見える風景も変わってくるのではないのだろうか。

もっと世界の在り方の変容というところから少し考えてみようか。
この社会は明らかに経済的に縮小の時代へと向かいいつつあることは間違いないようだ。
BRICsの歴史的台頭というこれからの時代は、限りある資源をこれまで享受されてこなかったこうした国々の多くの民が群がり、奪い合うような世界になっていくのだろう。

そうした時代の中で、無駄な資源の浪費は許されるものではなくなっているし、一方での地球温暖化という待ったなしの地球環境問題は、ボクたちの生活の在り方そのものをも問われようとしているのであって、快適な生活というものの価値基準そのものが大きな変容を迫られているとも言えるのだろうと思う。

必要にして最小のコストで、快適な生活の在り方を求め、持続可能な生き方を再定義していかねければならない時代にあって、あえて言えばボクたち木工家の在り方、生活スタイルも捨てたものではないだろうし、むしろ夢のある有為な人生のスタイルでもあるとは言えないだろうか。

先にも言及してきたところだが、他人に訳知りに「木工家の方々は大変ですね〜」と慰撫されようものなら、そうなんです‥‥、と苦笑いを返しながら同意するのではなく、あぁ、この人は何も分かっていない人なんだな、と見返してやるぐらいの気概を持ちたいものだ。
ともかくもまずは若者に木工家というものが人生の1つの指標足り得る姿として映るように、溌剌として、毅然とした姿というものを身につけたいものだ。

さて話しを戻そう。
仕事の質を高めるための1つの答えが適切な機械の導入にある、という話しだった。
この問題の背景には既に語ってきたことでもあるが、それぞれの木工修行過程での環境に大きく影響を受けていることがあるのではないだろうか。
卑近な事例でのボクの場合だが、かつて信州で基本を習得させていただく機会から木工家の道をスタートさせていただいたのだったが、機械の使用ということにおいてははなはだ遅れたものであったように思い起こされる。

それはその後の個人的に指導を受けた横浜クラシック家具出身の親方から多くのことを学ばせていただいたことが、この機械使用における客観性を獲得することに繋がったという経験がそのように判断させる根拠となっている。

例えばストロ−クサンダー(2点or3点ベルトサンダー)の使用など、信州では恥ずべきものであるような概念として認識させられてきたのだったが、そうした考え方は、実際に使うことで全く根拠のない、間違った位置づけであったことにただちに気づかされるものだった。
研削精度も研削能力もはるかに高く、もはやとても以前のスタイルには戻れようもないものだった。

あるいはこの世界ではとても有名なある木工房に見学させていただいた際の事であるが、シンプルな形状の椅子の後ろ脚のなだらかな凹部の成形作業(仕上げではなくて)を、何と手のみで丁寧に削りながら成形していたのには腰を抜かすほどに驚かされた。

ルーター、縦軸面取り盤などで型板を作り、倣いで成形すれば高精度に、あっという間に仕上がってしまうのにである。
あるいは事情があって機械設備がなければ、帯ノコの後、反り台鉋、あるいは南京鉋などを用いることで、手のみよりもはるかに高精度に、スピィーディーに成形できることだろう。
ここの製品単価はとても高いもので、百貨店などでの販売力はあったようだから、それはそれで構わないだろうが、しかし見方を変えれば、全く無駄な作業でしか無く、そのコストは消費者に転化されてしまっているという客観的事実から果たして免れるのであろうか。
恐らくは、ここのスタッフは国内の木工産業、家具職人たちのスタンダードな制作スタイルというものへの認識が全くと言って欠如していることからの、唯我独尊のスタイルに固まってしまっているということなのであろう。

あるいは、そうした国内の木工加工における基準というものを経験することなく、手短な木工雑誌などから情報を取得する、さらには今日ではネット上の必ずしも十分とは言えない未検証な情報へのアクセスで学習するということなどと言った修行の在り方からすれば、当然にも適切な機械使用のスタンダードな修得機会を獲得することにならないということもあるのかもしれない。
(海外の木工雑誌での技法紹介については、多くの問題があるのだが、いずれ機会をあらためて考えてみたい)

ところでこのような修行過程での不十分な基本技能習得の欠如は、何によって埋めることができるのだろうか。
最適な道筋は、やはり修行の場をしっかりと選択すると言うこと以外無いかも知れないが、時間を戻せないのであれば、やはり信頼できるしっかりとした基本技能を持った先輩木工職人を説得し、頭を下げて教えを請うことという常道が最良であろう。

あるいは補足的には、日本の木工技能関連の文献を漁ること。
現在では残念ながら確かに良い文献は少ない。
しかし戦後間もない頃から60年代頃までは、多くの関連する文献が巷にあふれ、木工産業の近代化に寄与したという事実を忘れてはならない。
もちろんこれらは絶版のものがほとんど。
したがってこれらにアクセスするには古老の木工家、木工所の親方へと貸与を懇願する、あるいは蔵書数の多いと思われる図書館を検索しよう。

ボクはかつて修業時代、国立国会図書館を始め、都内のいくつかの図書館に集中的に通い、多くの関連文献に触れることができた。
国立国会図書館は蔵書数では圧倒的なので、良い選択と考えられるが、ただここは閉架なので、少し時間が掛かることは覚悟せねばならない。
また多くの図書館の開架にある文献はその一部に過ぎない。旧い文献の多くは地下深いところに眠っているものだ。
あるいは知人を頼って、関連する教育カリキュラムを有する大学の図書館にアクセスするというのも、良い考え方だろう。
こうした地道な努力を排し、手短に安易な方法でネットで得られる手法を選択するようでは、その程度のスキルしか備わらないのは仕方ないところだろう。

今回は本論に入る前で躓いてしまった。
次回から予定通り機械導入と制作スタイルの問題により具体的に入っていきたい。

hr

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • なかなか厳しいお言葉が並んでいますね。
    私などは、どうも量産家具工場の機械化とごっちゃにして
    考えてしまうのですが、artisanさんの真意はもう少し違う
    ところにあるのでしょうね。
    単に機械化という面では量産家具工場に勝てるはずもない
    でしょうから。
    量産家具との差別化=機械化できない手加工、という単純な
    図式が頭にあって、機械化すれば生産性が上がるのは理解できるのですが、どこで線を引くのか悩みます。
    金銭的な線はあまり意味がないような気もします。
    個人家具工房としての線を示していただくとありがたいです。

  • acanthogobius さん、コメント感謝です。
    このBlogは多くのアマチュアの木工ファンもご覧いただいているようですが、そこでまず申し上げておかねばなりませんが、この論考はあくまでも職業木工家を対象としたものです。
    もちろんアマチュアの方々にも参考にはなるでしょうが、求められるスタンス、その質において、どうしてもそこには彼我の大きな差があることはご理解下さい。
    私たち職業木工家の活動は、あくまでも生業ならではの経済的行為であるということにおいて、対社会的な責任というものがあります。
    >量産家具との差別化=機械化できない手加工、という単純な図式
    恐らくは半分正しく、残り半分は留保せざるを得ない、と思います。
    工房スタイルの家具制作の優位性は、ただ手加工にだけあるのではなく、如何に機械制作ではあっても、量産工場では失われてしまっている本来のもの作りの意味(手抜きがない、といったことなどを含む品質、作家性、オリジナリティー、あるいは個人の顧客とのダイレクトな関係性を前提とするもの作り、など)を復権させるというところにもあるのではないでしょうか。
    私見では手加工という手法に関しては、あくまでもそれを果たすための1つの要件でしか無い、ということではないでしょうか。
    手加工であったとしても、現代の我々が共通に認識できる一定の美的価値、木工品としての一定の品質が伴わなければ、職業木工家の作るものとしては疑問視せざるを得ないことは、量産家具の品質問題を語るのと同じ文脈で語られなければならないのでは?
    ボクがこれまで何度か語ってきた“手作り”木工なる陥穽について自覚的でありたいということも同じ文脈です。
    >個人家具工房としての線を
    未了ですが、この論考で継続的に考えを提示しているところです。
    しかしいずれにしましてもこのようなコメントは大歓迎。
    議論を活性化させていただきホントに感謝しています。
    ありがとうございました。

  • artisanさんがこの論考の対象として考えている職業木工家の方も
    たくさん、このブログを読んでいらっしゃると思うのですが
    なかなか自分の意見としては表出して来ないようですね。
    それでも大いに参考にされていることだろうと思います。
    私は単純に疑問としてコメントさせていただいているので自分がアマチュア
    である立場はあまり考慮していません。
    このタイプの論考はアマチュアの立場からは出る幕のない所ですので、職業木工家を対象にしているのは十分承知しております。

  • acanthogobiusさんは、確かにアマチュアと言えども、立派なWorkshopを構えていらっしゃって、軸傾斜丸鋸盤を導入するなど、その姿勢には感服しているところです。
    acanthogobiusさんには誤解されているとは思いませんが、論考の対象が例え職業木工家ではあっても、アマチュアの方々、あるいは一般の方々からの多角的なコメントはより議論の深まりを呼びますので、Welcomです。

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