“手作り家具”と機械設備(その2)
機械設備の考え方
機械を使わない木工家
木工家具を制作するための機械設備はどのように考えたら良いのだろうか。
今日は導入編として、機械を全くと言って使わないある木工家の話から始めてみようかと思う。
以前友人に伴われ、ある木工家のところへと表敬訪問したことがある。これはボクが独立起業して間もない頃の話しだから17、18年ほど前のことになろうか。
この木工家は美大を出て、間もなく文化庁の計らいで国内留学で木工芸を学ぶ機会を与えられ、専門誌に作品を発表するなど将来を嘱望される優秀な人であったようだ。
聞いてはいたのだが、訪問してやはり驚かされた。
彼が持っていた木材加工機械は‥、何もないのだった。
せいぜい電動の丸鋸、ボール盤ぐらい。
ボクはただ目を丸くして、その木工家の静かな語り口に耳を傾けるだけだった。
そのほとんどの加工工程は手工具、道具でやってしまうのだという。
言うなれば修行僧のように木工という世界と向き合っている人だった。
わずかに20年という時間を遡るだけのものでしかないのだが、そうしたストイックな作家活動というのも存在し得た時代であったのかも知れない。
無論これは過去形で語るしかない。
その後、風の便りでは木工家としての生き方を捨て、その腕を買われて別の業界へと転職していったとのことだった。
この木工家を取り巻く生活経済事情などで、転職の背景を語らすこともできるかもしれないが、そんなことはボクにも、恐らくは彼自身にもあまり本質的意味のあることではないように思う。
こうした話しは決して特異なケースではないのかも知れないが、多くの場合幾分憐憫のニュアンスを含む言葉で語られるものかも知れない。
しかしボクは哀れみというところから捉えることに抗いたいと思う。
確かに彼の“修行”は成就できなかったというところでは全く悔しいものだったろう。
彼自身の作家活動における戦略、戦術という側面での問題があったのも事実かも知れない。
でも彼自身だけに問題の所在を負わせるというのは、適切とは思えない。
恐らくはあの頃、彼の木工を取り巻く環境というものが激変し、いかに優れた木工の才能を持っていたとしても、それを活かすステージというものが無い。あるいはそうした才能を支えていくだけの力量というものが日本社会から失われていく過程であったということをこそ見据えておきたい。
そうした木工をめぐる環境の変化を“時代”という側面から見れば、あの時代に、まだあのようなスタイルで木工をしていたことの方が希有というべきかもしれない。
純粋アートにしろ、アーツ&クラフツのジャンルにしろ、その世界で生き抜いていくのは想像を絶する苦闘があるだろう。
日本という特異な形で近代化を進めてきた社会では、こうしたジャンルでの評価というものは、ある種の権威であったり、アートメディアでの扱われ方であったりと、幾分作品を離れたところでの作家を形成している様々な属性によって左右されてしまうなどということもあるだろうから、余計な苦労を背負うことになる。
こうしたことも含めて受容し、あるいはそれを積極的に活用する“力量”のある人が作家として生き残る有資格者となる。
件の別の仕事に未来を託さざるを得なかった人は、そうした力量には欠けるものでしかなかったと言うことになるのだろう。
ところで、この転職してしまった木工家の制作スタイルというものは、時代を遡ればごくりふれた光景だったようだ。
以前、須田賢司氏の講演で、彼のご尊父の木工について話された事の中で印象的なことがあった。
木工加工工程のまず最初は木取りである。加工工程に廻すために必要とされる部材を目的の寸法に平滑に削り上げることからはじまる。
その頃(1950年代?)、木工機械などというものは無く、製材されただけの板はまずは手鉋で平面を出し(荒仕込、中仕込、仕上げ等々の手鉋を駆使し)厚みを決めていく、というような作業が必須だった。1.5尺幅、4尺ほどの6分板(寸法は記憶がややあいまい?)を1日で自分の身の丈ほどの高さにまで積み上げていた、とのこと。
ちょっと今のボクたちには信じがたい木工を取り巻く環境だ。
確かにボクなどもプレナーに入らない幅の板はポータブル電動プレナー、手鉋を使った削りをすることも屡々ある。
しかしこの工程が全ての部材において求められるというのは、全く次元の異なる話しだ。
こうした木との格闘というものが木工を語るときの全ての前提になっていた時代では、自ずから職人を形成するエートスというものも今のボクたちとは大きく異なっているのは当然であろう。
ボクらのように、一発で500〜600mm幅もある板をジャ〜ン、と数秒のうちに寸分の誤差もなく削ってしまうことのできる時代に生きる職人は、果たして本当に幸せなのか、などという設問も一見愚にも付かないもののように思えるが、それは果たしてそうなのだろうか。
手で削らねばならないとなれば、木取り、選木については当然慎重さを求められるるだろうし、木を読む力量も問われる。
まさに現在の量産家具工場のように、木を単なる他の工業素材と同等のマテリアルの1つとしてしか見られないのに対し、あの時代の職人、木工家は所与の前提として自然素材としての木と対峙せねばならなかった。
これを単に大変だったんだね、という哀れみを持って聞く人は、この読者にはいないだろう。
彼らの方がその事に関しては明らかにヨリ木との親和性を持った仕事ができたのであって、これを幸せでなくて何と言うのか。
しかし、こんな回顧をしてみても木工文化の変遷を語るにふさわしくても、実践の現場で活動するボクたちにはあまり有為なことではないかもしれない。
それぞれの時代の職人を形成するエートス(心性)というものは、やはりその時代の生産様式に規定されざるを得ないことは必然なのだから。

acanthogobius
2007-12-16(日) 11:39
手作りするしか方法がなかった時代には、それが全て
だったんだろうと思います。
現代の手作りとは、ある意味哲学的な雰囲気を持って
聞こえてくるような気がします。
家具作家の方でも購入した丸太の製材に立ち会われることは
あっても、その木の伐採まで確認する方は少ないと
思います。
手作りとはいっても、それは自分の関与できる範囲内の
話であって、その木はチェーンソーで切れ倒されて
帯鋸で製材された物ですから。
反面、どこまで機械に頼るのかは、また色々考え方の
別れる所だろうと思います。
設備投資と収益性の問題も大きいと思います。
最近の農業が抱えている問題のように購入した農業機械の
借金を返すために働くようなことも起こるからです。
artisanさんのような個人工房の作家の方と
ユマニテさんのような組織の中で仕事をされている
方とは、また機械設備に対する考え方も違うと思います。
少なくとも組織の中で働いていれば機械導入の決定権が
ない反面、その機械がいくらの収益を生むかは考える
必要がないと思うからです。
結局、どこまで機械化するかは、その作家の考え方と
いうよりも、その収益性によって制限されている
部分が大きいのかもしれませんね。
artisan
2007-12-16(日) 12:55
acanthogobiusさん、いつも丁寧なコメント感謝します。
精力的にとは申し上げられませんが(不定期に)、今後acanthogobiusさんの認識、捉え方も押さえながら、記述していければな、と考えています。
ただ最後の
>どこまで機械化するかは、その作家の考え方というよりも、その収益性によって制限されている部分が大きい
という点につきましては、自身を振り返ってみて、同意できない側面がありますね。
ボクが記事中で対象としている木工機械はほとんど専用機というよりも汎用のもので、いずれも中古品であれば数10万円で入手できる程度のものですので、職業木工家としては必要と認めた場合、価格がその障害になると言うようなものではないでしょう。したがってむしろ
>その作家の考え方
に大きく規定されるものだと思います。プロという職業意識からすればそれが日々の経済活動の消費への取捨選択におけるごく自然な倫理的立場(自らの職業に対する)ではないでしょうか。
ま、自家用車のクラスを1つ下げても、必要な機械への投資をする、というように。
acanthogobius
2007-12-16(日) 14:52
プロでもない私が思いつくまま書いてしまいました。
失礼があればお許しください。
アマチュアの私でも、というかアマチュアだからこそ
自分の中で機械をどう位置づけるのか悩ましい所です。
機械のコレクションでもしてるの?と言われそうです(笑)
私が知っているプロの作家の方は多くありません。
しかしartisanさんのように多くの機械を導入されている方は
私が知る限り見当たりません。
機械を導入するということは設置場所も含めたトータルな
環境が必要で、そのような環境を持っている人ばかりでは
ありません。
もちろん、artisanさんが今までの努力と苦労でそのような
環境を手に入れたことは認める所でありますが
何かポリシーがあって機械を導入しない、というよりも
買いたくてもお金がない、置く場所がない、という人の
方が多いような気がするのですが。
artisan
2007-12-16(日) 21:59
機械設備の考え方における、プロ、アマの差異というのも、明確に分けることなどはできないかもしれませんね。
acanthogobiusさんがこの度導入された軸傾斜丸鋸盤は確かにアマとしては異例かもしれませんが、意外とDELTAなどで導入されていらっしゃる人は多いのではないかな?。
つまり必要とされる基礎的な木材加工機械については、プロはより堅牢で耐久性の高いもの(例えば駆体は鉄製ではなく、鋳鉄製、というような)を選択するでしょうし、アマは稼働率が低い分、それなりのもので十分という考えもあるでしょう。その程度の差異かな?
また富裕層のアマなどは、より趣味性の強い高価な物を選択するということになるでしょうか。(Dominoのような:笑)
明らかに違うところがあるとすれば、プロは業務内容によっては高度な専用機を導入するということなどにあるでしょうか。
しかしいずれにしましてもボクたち木工家と言われる人の多くは、アマとさほど変わらぬ、汎用機械で充足させているということになるでしょう。
なお、これもいずれ書くつもりですが、アマの人たちは海外からの関連情報でスキルを磨くことも多いと思いますが、その影響で謂わばアメリカンスタイルでの技法に依るところが見られ、結果、大型の木工機械に依らず、小型の機械、あるいはまた刃物で言えば、カッターではなく、ルータービットの方を選びがち、ということもあるようですね。
これはプロの人にも見られますが、切削性能、生産性からして、優先順位を高くするわけには参りません。
先のあなたのBlogで記事になった「蛇口」の仕口のためのビット vs カッターも同じでことです。
あの種のものは昇降盤を設置していない人のための補助的なもので、切削性能、生産性からしてプロとしては選択できません。(圧倒的とも言える差が出ます)
アマの方々には良い選択でも、プロとしての刃物選択においてはやはり厳しさがありますね。
価格差は意外とさほどのものでは無いのですががね。
なお、ボクの機械のラインナップは決して仰るような希有なものでないと思います。
当地域では、皆さんほぼ同様な、あるいはこれ以上に設備されているというのが一般的です。(悔しいけれども、うちなどはみすぼらしいほどですよ)
そうしたところから考えますと、地域差というものは確かにあるかもしれません。
当地は家具産業の盛んなところですので、機械への認識レベルが高く、先に述べたようにその機械の性能を知り、それが必要だろうと認めれば、家事も含め総合的な消費経済の中で購入における優先順位を高くするというのは、ごく普通の感覚です。
(+信頼のおける機械屋があるかどうかも大きいかも知れません。機械が必要とあれば、当地に来て下さい)
今回の機械設備についてのエントリも、他の地域の方々の機械に対する基本的認識が少し弱いのではと言う懸念から始まっていると言うこともあります。
さらにはこのBlogの読者にも多いと思われるアマの方々の情報入手先が、あまりにも海外に寄っていることで、国内のごくありふれた木工現場の現状(機械設備、およびその使い方など)を知らなすぎる、ということへの懸念もあります。
同時にBlog運営者がプロよりもアマの人の方が圧倒している、という現状もありますので、Blogというものがプロの若い方々への影響力も少なくない中で、少しでも国内の木工家具制作におけるスタンダードな技法を紹介するとともに、ご一緒に木工文化というものの在り方を考えていければよいかな、と思い、力量不足を省みず、書いているというところでしょうか。
(Blogで様々に語られることは悪いことではありませんが、国内のプロから見た場合、あまりに推奨できかねる手法の紹介があふれかえっているという鼻白む現状もあり、残念でなりません。いわばボクはBlog界では抵抗勢力、かな?
ぜひ、皆さんにはリテラシーを鍛えていただくほかありません)
いずれこのコーナーで記事にしましてそうしたことなども詳しく考えてみたいと思います。
少し冗長になってしまいましたが、acanthogobiusのコメントは、より問題の所在を明らかにする上でWelcomですので、今後もよろしく。
acanthogobius
2007-12-16(日) 22:45
ご丁寧なコメントありがとうございます。
かなしいかな、アマチュアの場合はネット経由のアメリカからの情報の方が入手しやすいのが現状ですね。
国内木工機械、刃物メーカーのホームページを見ても、それはプロを対象にしたものでアマチュアにとっては使い方も良く分からない物が多いです。
先日の蛇口の技法にしても、その加工方法においてネットからは有益な情報を得ることができませんでした。
「プロとして、そんな技法を公開する意味はない」と
言われればそれまでですが私としては貴ブログの今後の
展開に期待しています。(ちょっと甘えすぎかな)
このコメントに対する返答は無用に願います
次を楽しみにしています。
artisan
2007-12-17(月) 08:29
コメント無用、ということでしたが、あえて書き落としたことを1点追加させてください。
“木工家はビンボウ”、“金がない”と言う当たり前のように流布されるのには、いささか抵抗があります。あまり健全とは申せません。
確かにそうした側面があることを否定しませんが、芸術的アプローチにおける社会的評価の難しさはさておき、一般の木工家具制作においては十分に経済的見返りを達成している人は少なくありません。
このエントリ記事に関わるところからこれを検証しますと、そうした経済的困窮を強いているのが、多分にテクニカル的な問題が潜むように思います。
技法があまりにも稚拙。生産性が低いままに捨て置いている。
いつまでもアマチュアのような態勢で構えている。ひとりよがりな手法。
ビンボウだ、ビンボウだ、と卑屈になる前に自身の制作スタイルを検証することで、新しい世界は切り拓かれるかもしれませんね。
ネット世界に閉じこもり呻吟するばかりでなく、外のリアルな世界へ出ることで新たに見えてくることは多いものです。