工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

天秤指しをプレス機で

プレス機昨日、当地静岡ではソメイヨシノの満開が報じられた。平年に較べ1週間早いのだそうだ。
一昨日までは冷たい雨が降り続いたものの、一転して昨日は冬型の気圧配置に戻り、朝から晴れ上がってくれたので、気温もわずかながら上昇し、開花も進んだのろう。
工房に入った早朝、湿度計はまだ60%を超える数値を示していたが、みるみる下がってきて、お昼過ぎには40%を切ってくれた。
この環境をありがたく頂戴し、喜々として数日間先延ばししていた板指しの組み立てを行う。
午前中は帆立に摺り残などを取り付けたり、背板のプレ塗装をしたり、抽斗束を取り付けたりと、準備を進め、午後から一気に組み上げた。
朝から環境に晒していた甲板も乾燥が進んでくれたようで、帆立との組み手の嵌め合いも戻り、割裂するようなこともなくスムースにいく。


画像はプレス機での圧締。
板指しの組み上げは框とは異なり、板面全体に均一の圧締力を加えねば具合が悪いので、こうしてプレス機の助けを受けて行う。
框ものの組み立てのようにハタガネ、クランプなどで首尾良くいくものではないからね。
こうして均一かつ強力にプレスすることで、無理なく、緊結すべきところ全てがビシッと接合させることが可能となる。
ところで以前、遠方から訪ねてきた知人木工家がこのプレス機を見て、まるで工場だね、と眼を丸くした。


ハハハ、ここ静岡ではこの程度の機械規模ではとても充実しているとは思われないのだがねぇ、と苦笑を返すしかなかったのだが、
なるほどしかし、これでは「手作り家具」などと言った呼称はできようもないか。
いわゆる工業製品として市場に供給される家具とボクたちの一品制作を基本とする家具の制作環境の差異はどのように考えるべきなのだろうか。
量産家具の製造環境というと、大規模な工場で、いわゆるフォード・システムから発展してきたベルトコンベアでの流れ作業で機械生産されているという単純なものでもない。
一人親方で丸鋸盤1台を駆使し、徹底した合理性を追求しながら100〜1,000単位ほどの家具の部品を作っているところも数多くある。
最小限の機械規模で大量生産の一翼を担っているというわけだ。
そうした集合体と、これらをアセンブリーする工場で成立しているというのも量産家具システム一方の実態であろう。
確かに一昔前には手押鉋盤もプレナーも無く、加工前の板を用意するにも、製材機で粗挽きされただけの広く大きな板を、荒仕込鉋からはじめ、全てを手鉋でやらなければならない時代があったことも確か。
ただその時代は大量生産システムを持つ工場も無ければ、大衆消費社会の訪れにもまだまだ多くの時間を必要とされただろう。
そして21世紀の今日、この時代にそうした環境を受け入れることができるわけもない。
真摯に木工に向かう修行僧のようなアマチュアであるならばいざ知らず、顧客に過度の負担を強いるような膨大な時間を掛けて過酷な労役とともにチマチマとやっている暇など無い。
必要とされる合理的な汎用機械を導入し、その高い生産性により生まれる余剰時間を仕口の精緻さに投入する、あるいはより高品質な材料の手当に投ずる、はたまた高精度に組み上げるプレス機を導入する、と言った方向性で考えるというのが賢明なスタイルというべきだろうね。
J・クレノフは『A Cabinetmaker’s Notebook』において、アトリエへの訪問者が機械の多さに驚いたことに触れ、上述のこととほぼ近いことを語り、そして最後に「Each of us alone must determine the balance.」と結んでいる(Sterling Publishing 版 p67)
つまり木工機械を忌むべきものとして対象化されるべきではなく、自らの仕事の相棒として如何に上手に使っていくのかが重要なのだろう。
手工具の延長として、つまりホモサピエンス・ヒトとしての特権である道具の高度なものとして機械を正しく位置づけ、使いこなすこと。


したがってボクはそうした思考スタイルであるので、自身の家具制作スタイルを「手作り家具」などとは決して口にしない。
必要とする機械で、導入する環境があれば積極的に設置していきたいという考えに立つ。
今回の「天秤差し」組み手のような場合に、無理をして、しかしその結果あまり巧く組めないというようなことがあってはいけないし、キレイに、クールに決めたいと思うからね。
ボクが知りうる範囲での良い木工をする人に共通して言えることは、いずれも木工機械に精通し、これらを完璧に使いこなし、あるいはオリジナルな使用法を開発し、独自の世界を作り上げるクールな職人達である。
彼らもまた「手作り木工」などとは自称しないのは言うまでもない。
詐称とは言わないまでも、「手作り」の過度の強調はその実態をあいまいにさせ、外部への歪んだメッセージになるばかりか、自身の制作スタイルへの自負を貶めることにもなりかねないのではないだろうかね。
と、ここまでタイプして遅ればせながら気づいた。
こんなこと、過去何度か集中的に記述してきたのだった。
興味のある人は右メニュー、CATEGORIES、「“手作り家具”と機械設備」からどうぞ。
22回というかなりの分量なので、読む人なんかいないか。ハハハ。
明日は酒でもぶら下げ、近くの土手に数百本もの咲き誇るソメイヨシノの下で花見と洒落込もうか。


*プレス機 過去関連記事
プレス機の効用(09/04/03)
テーブルの脚は無用か(08/08/14)
曲面を持つ板の木取り2題(05/11/10)
ウォールナット・ラウンドテーブル(09/12/15)

組み上げた

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • チェリーもこれくらい幅があり、一枚で取れるときれいですね。
    ひとつ教えてください。
    天秤指しの場合、ピン側、テイル側を縦横どちらに持って来るかは
    決まりがあるのでしょうか?
    artisanさんの作品を始め、ジョージナカシマなど、ピン側を天板(横)
    に持って来る場合が多いようですね。

  • >チェリーもこれくらい幅があり
    チェリーという材種についてはあまり詳しくなく、市況もよく判りませんので、
    幅のグレードの評価もできませんが、
    板指しで天秤指しともなれば、一枚板というのは望ましいですよね。
    因みに、左帆立・甲板・右帆立と、3枚の板は、
    長い1枚の板を順番に3分割して木取ったものです(木目が繋がっている)。
    >ピン側、テイル側を縦横どちらに持って来るか
    困りましたね。
    あまり意識もしていませんでしたが、確かにまま逆も見掛けますね。
    一般的なキャビネットの構造上、つまり棚口などの仕口との関係上、
    pinを横に出すのが組む上で無理がない、と言うことになりますね。
    またこれは個人的な美意識の問題ですが、
    意匠的にもこちらの方が良いですね(単なる既成概念でしかないかも)

  •  木工機械は手工具のうちのひとつですね。 「手作り」という言葉には何故か偏った印象を受けてしまいますね。 

  • たいすけ さん、コメントありがとうございます。
    >木工機械は手工具のうちのひとつ
    なるほど、難しく考えずに大胆にそう考えれば良いというわけですね。
    慧眼、はたまた暴論。(笑)
    たいすけさんのお仕事ぶりからすれば前者だろうということが分かります。
    工具は手の延長で、また機械はさらにその延長という位置づけも可能でしょうからね。
    >「手作り」という言葉
    単なる営業戦略なのでしょうか ??
    私が使わない理由の一つは、今や「手作り」という言葉自体が消費されつくし、その結果、言葉本来のプリミティヴな(原初的な)意味合いが汚れちまっているのでは、との思いがあるからかな 。
    中原中也の詩にもありましたよね  
    「汚れちまった悲しみに・・・」
    ‥‥ ちょっと違いましたか(苦笑)

  •  木工機械を調整したり、治具を作るのはあきらかに手仕事ですね。
     それが上手く出来ないと、その為に上手く頭や手指を動かせないと、ものを作るには失格しますね。
     「手作り」という言葉はもはや死語ですね、もっと嫌な言葉は「手作り風」でしたが、「手作り」と一緒になってしまいました。
     まさに「汚れちまつた、、、」 その通りです、使わせて頂きますね(笑)。

  • なるほど、「▽○風」というというのも考えて見れば微妙な言い回しですが、現代においては「手作り(+風)」という言い回しも含め “キャッチ”な言葉なのでしょうね。
    仰るように「死語」であれば良いのですが、市場においては一定の有効性を維持しつつ生きながらえているからこそ、使われているのでしょう。
    しかし作り手と使い手の幸福な出逢いを「汚れちまった」言葉で結び合うのは不幸なことです。
    端からすれば、やや過激なコント、いや失礼、会話だったかもしれませんが、家具制作における本質、さらにはモノヅクリ全般の本質を問うものであったかも知れませんね。
    たいすけさん、ありがとうございました。

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