天秤指し
呼称について
このBlog、およびボクのWebサイトで一貫して〈天秤指し〉と呼んでいる仕口だが、必ずしも木工界においての一般名称とはなっていないかもしれない。
これは公刊されているテキスト、あるいは関連するメディアの影響が大きいと考えられるが、木工といったある種の伝統的技術体系に依るものであれば、その語彙の背景にある歴史文化的要素、文脈、あるいはこう言っても良ければ連綿と連なる木工職人により培われてきた、符牒も含めた豊穣な用語が意味するところを、まずはまるごと受容し、加工現場の状況と照合させつつ、継承させていきたいと思う。
なぜに、このようなことに拘る(言ってしまえば拘泥する)かと言えば、近代以降、日本にあってはとりわけ戦後における大衆消費文化とともに発展した木工の大規模産業化は、ライフスタイルのアメリカ化とともに、大型家具などがあまねく居住空間へと届けられ、文化的向上をもたらしたものだったが、一方ではこれらの過程は日本の木工文化の発展という側面とともに、生産システムの合理性が過度に追求されるあまりに、より簡便な生産システムへと雪崩を打ってシフトしていったことは認めざるを得ないところだろう。
ホゾを用いた仕口であるとか、手鉋を用いるような仕上げなどは、非合理的なものとして忌避されもするといったように。
つまりは工業生産としての家具産業とは、木工技法におけるある種の本質を捨て去ることで発展してきたものであるとも言えるわけである。
このような過程は精緻さを誇ったり、あるいは江戸指物に視られる粋な思考としての〈隠し○□〉といったような見え掛かりには表れないところでの精緻な接合技法は、今や一部の指物職人、あるいは博物館に奥深く納められてしまうような遺物として確認できるだけのものでしか無いのかも知れない。
また、昨今、インターネット文化の劇的普及は情報の世界化、情報のフラット化をもたらし、海外の木工文化、とりわけ英語圏のそれが大量に流入し、同時に木工に関わる用語が流入することで、ごちゃまぜとなり、それら用語の背景にある技法体系すらもが、侵犯を受ける如くに変容されざるを得なくしてきたのも、偽りの無いところだろう。
例えば“鬢太”(ビンタ)などという木工仕口の用語を知っている読者は果たしてどれだけいるのだろうか。(このBlog内の記事)
〈天秤〉という用語もまた、たぶんほとんど使われなくなってきている。
因みにネット検索して拾われるのはこのBlog記事ぐらいしかないということからも、それは十分に推量できてしまう。
これに代わって呼称されるのが、「アリ組」であり「ダボテール」であろうか。
古今東西、あらゆる文化的営為に共通して言えることだと思うが、1つの技法が他の文化圏へと伝播し、その土地で独自の発展形態を経、今に伝わっていることは多い。
各地域で、様々な民族が、他から伝播されてきた文化的事物をそれぞれに換骨奪胎し、独自発展を遂げ、またそれらの成果が別のルートを経て、他へと伝播していく。
そうした歴史的時間軸の過程で、多様に発展してきた文化的営為こそ人類の豊穣なる遺産であり、ボクたちはそうした果実を受け取りながら、その時代の生産様式の中で編集加工し、また次の世代へと継承させ、あるいは他の文化圏へと伝播させていくのである。
人々が築き上げてきた歴史、人類の文化史的発展とはそうしたものである。
木工技法も同様で、古今東西、形を変え、品を代えてはいても、たぶんルーツを同じくするであろうことは実に多い。
この「ダボテール」もまた「天秤指」とほぼ同様な目的と機能を為す木工技法の1つの粋である。
あるいは「アリ(蟻)」もまた同様だろう。
- ダボテール → 鳩の尾の形状
- 天秤 → てんびんにぶら下がる錘の形状
- 蟻 → アリの顎の形状
それぞれ対象は異なれども、意味するところは近似している。
同じものと視られたとしてもとりあえずは罪は無いだろう。
また用法としては天秤指(天秤差し)と呼称することになるが、これは「アリ組」という呼称とはその用い方、あるいは考え方において明確に異なっている。
「蟻」は「組む」のではなく「指す」あるいは「寄せる」ということで用いられてきた。
甲板の反り防止を兼ねた蟻の桟などが代表的な事例だが、これはボクも良く用いる吸い付き桟の「送り寄せ蟻」であるとか、あるいは鏡台の鏡枠を本体甲板に接合する時に良く用いる「寄せ蟻」も良く知られた仕口である。
これらが接合技法として、いかに合理的、合目的的であり、ある種、木工技法の華(はな)の1つであるかは、木工を少しでも理解できる人であれば同意していただけることだろう。
一方、今回取り上げている、甲板と直角に交わり、接合される帆立との仕口に用いる「天秤指」を蟻組み、と呼称しているのが一般的なようだが、これは用法としては誤用だろう。
「組む」のではなく「指す」のである。
単なるシニフィエとしての概念だけではなく、木工技法、広い意味での木工文化を背景とした用語としてこれを捉えることの意味を考えていきたい。(この項 続く)
acanthogobius
2012-9-11(火) 09:14
何やら随分難しい文章にしてしまいましたね。
論文でも書くつもりですか?
自己陶酔というのか、自分の文章に自分で酔っている
雰囲気が伝わってきます。
逆に論点がぼけることはありませんか?
artisan
2012-9-12(水) 20:51
acanthogobiusさんにはご迷惑をお掛けしたようで恐縮に存じます。
生堅な文章、文体であったかもしれませんね。
ただ今回の記述対象は、わたしのBlog一般にみられる技法の紹介であったり、雑多な内容のものとは異なり、木工と言えども、1つの工芸文化として見たときの、歴史的文脈から考えて見ようというものです。
そうした領域を記述対象とする場合、雑多な日々の書き殴りとは、ややトーンが異なっているということは認めますし、むしろあえてそうした文体を使っているのも確かです。
ひとりのBlog運営者ではありますが、記述対象は私の関心領域全般にわたるものです。
その結果、残念ではありますがお気に召さないものがあるのは仕方が無いものと考えるしかありません。
また、長年親しくお付き合いいただいてきたacanthogobiusからのご指摘であれば、温情からのアドバイス的なものとして承っておきたいと思います。
私にはそうした文体は似つかわしくない、あるいは全く理解できるレヴェルでは無い、というご批判は甘受いたしましょう。
無論、批判は承りますが、今後も様々な文体を駆使し、様々な方々に届けられるよう、努力していくつもりです。
未熟ゆえのお気に召さない記事は、どうぞスルーしていただければと思います。
インターネットの普及と相まってBlogが広く一般に用いられ、日本語の文章は、より簡便で、より会話調の文体が幅を利かせてきているのも確かなようです。
それはそれで、自由な雰囲気を醸し、とても良いものだと思います。
一方、そうしたものとは少しトーンを替え、古くから伝えられてきている日本語の豊かさ(語彙の豊さを含め)を駆使していきたい、という欲望があるのは確かです。
さらにこう言っても良ければ、木工の切り口は多様であっても良い、いえ様々な切り口で語ることで、より豊かに、より深く、より可能性を秘めたものとして次世代へと伝えることができれば、とも考えているのです。