工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

“プロダクト的思考”と“手作り家具”(番外篇)

面腰の事例

面腰の事例

本件、“プロダクト的思考”と“手作り家具”は、高品質な水準を維持し、持続可能な生業として木工を営むことについて考えを巡らせているところです。

客観的なデータを持っているわけでもありませんので、木工というものが、現代を生きる若者にとってどれだけ魅力のある仕事であるのかは分かりません。

国内産業も自動車産業に代表される世界最先端のモノづくり産業が活況を呈している反面、家具産業は生産基盤の海外移転が著しく、国内では衰退の一途を辿っているという実態は広く知れ渡っていると思います。

そうした厳しい状況下、あえて木工家具の世界に挑んでくる若者は、70〜90年代の華やかな時代の頃に較べれば、ある種の覚悟を持ち、目的意識的、意欲的に挑んで来る人々なのだろうと思います。

信州の技術専門校への出願数が受け入れ枠の5〜6倍と聞けば、一部においては落胆させられるほどには、人気は落ちていないことも示されています。

家具産業の生産基盤がアジアの低開発国へとシフトしている中で、あえて日本国内でモノづくりに勤しむのかという意味についても、これらの若い方々にも理解されているはずです
ニトリやイケアといった巨大メーカーに市場を席巻されている中にあって、木工家具を作る意味についてですね。

なお、その志向も様々だろうと思います。
もちろん、表現行為としてのモノづくりに、自身の美意識、教養などを投下したいと考える人もいるでしょう。
他方、量産家具には無い丁寧なモノづくりで、工業化社会の中で失われつつある手作りの復権を意識している人もいることでしょう。

あるいは単純にモノづくりが好きで、木が好きで、という、ある種、もっとも強力な意志の在り様から軽やかに鉋を手にする若者も多いと思います。

このように意志の在り様は様々であっても、木工家具の世界に挑むための基本的な姿勢としては、まずもって蓄積されてきている近代までの木工技法へとアクセスし、学び、修練し、実践へと向かって行くことです。

例え、オリジナルな表現として木工を選択している人ではあっても、木材というモノづくりの素材としての特性を熟知し、これを自らのものにするためには、先人が考え抜いてきた技法を習得することを通して、表現の自由性が拡がるでしょうし、また木材特有の困難さからの破綻を回避することにも繋がるのです。

伝統的な木工家具に踏まえ、現代社会で求められる意匠の木工家具を志向する職人であれば、世界に冠たる知的資産のある木工技法の体系を自らのものにすることで、意匠のさらなる展開、拡張へと繋がっていくでしょう。
もっと、もっと、自由になれるのです。

そうした一見煩雑とも感じられる技法の習得から逃げていたのでは、自らの可能性を塞いでしまうことにしかならないでしょうし、そうしたことから逃げていたのでは、本来、もっと楽しめるはずの木工を裏切ることになるでしょうし、極論すれば、果たして、この現代日本で木工家具を勤しむだけの価値があるのかといった疑念すら起きかねないのでは無いでしょうか。

鉋イラスト

蛇口(馬乗)に用いるカッター(左から2つめ)

蛇口(馬乗)に用いるカッター(左から2つめ)

このような《番外篇》を挟み込むことになった理由ですが、過日、あるキーワードでググってみたところ、私の名前とともに、技法について交わされているWebページがあったのです。
そこで交わされている内容が、あまりにも心許ないもので、あっけにとられてしまうものでした。

少し具体的に言えば、面腰や蛇口は面倒でやっていられない、などと言ったもの。

聞き捨てならない議論です。
日曜大工においてそうしたことを求めようというのでは無く、職業的現場においての話です。
例えば、建具の職場では、これらはありとあらゆる建具に常に必要とされ、ごくごく当たり前の木工技法のイロハのイでしかありません。

現在では多くの場合、ホゾ取り盤などで機械加工される領域も多いかも知れませんが、フツーの傾斜盤でも汎用的な刃物の他、1枚の45度の傾斜面を持った刃物を用意すれば、いとも簡単に加工できてしまうものでしかありません(右画像、左から2枚目のカッター)。

一見、面倒くさいからやらないでおこう、というのは単なる怠惰、あるいはやや強く言えば、退廃でしょう。
どうせ、客など分かりはしない、などと言ってしまえば、奢りであり、木工への背理であり、自己欺瞞でしょう。

もちろん、そうした背景には、こうした技法を伝える場が無かった、訓練校では教えてもらえなかった、あるいは単なる無知、無欲、と言ったこともあるかもしれません。

確かに、訓練校でも、まともな水準で指導できる教員は意外と少ないのかも知れません。
教員自身の技術レベルも様々でしょうし、指導力も同様、様々。
これらは時代が進むごとに堕ちていくのも想像に難くないでしょう。

しかし、だからといって、修得できなかったという言い訳は職業的な木工では果たして許されるのでしょうか。

こうした技法は決してこれ見よがしに見せるためのものなどではありません。
構造的な堅牢性からの要請という意味も多少はありますが、木工という工法では必須の接合技法において欠かせぬものです。

本件論考の冒頭部分で取り上げた接合部位の事例は、職業的木工での標準的な仕口に反する手法です。
これは古今東西、一定水準の木工であれば比較的一般的に観られる技法と行って良いでしょう。

枠組み、框組の構造にはじまり、様々な接合部位に用いられ、任意の面処理が合理的にシステマチックに行えるわけです。

そうした類の技法を「面倒くさい」から「逃げ」るという姿勢では、真っ当な木工への取り組みへの期待も裏切られるものとなってしまうでしょう。

鉋イラスト

こうした基本的な技法の課題は、意欲がありさえすれば、独学することだって全く可能でしょうし、古老の職人の下へ、一升瓶ぶら下げ、頭を下げて教えを請う姿勢さえあれば、いくらでも学べるでしょう。

そうした謙虚な姿勢を持たずして、自己の狭い世界に閉じこもっていたのでは、開かれた世界へとアクセスすることも、より困難になることは明らかでしょう。

つまり、木工という技法体系への敬意、あるいは自身の職業への責任感、誇りが問われるという世界の問題でしょう。

あるいは、別の言い方をすれば、職業に就いたその世界を十全に楽しもうという人としての基本的な意欲の領域の問題であるのかもしれません。

書店にあふれる木工関連の手軽な本や、インターネットなどで修得できるのであれば、実にありがたいわけですが、私が知る限り、そうしたといころから学べるのはほんの一部であるか、あるいは誤った情報の方が多いという実態も散見され、注意せねばならないという問題さえあるのです。

Blogへのコメントの中に「正調」とする言葉がありましたが、そうした概念をしっかりと自覚する必要があるのかもしれません。

まだまだ日本には「正調」を日々の仕事の標準的スタイルとして淡々と勤しんでいる職人、親方はどの地域にもいるはずです。

安易に独学で修得するという手法では無く、泥臭く、泥臭い木工現場から「正調」を学び、意欲があるのであれば、それを自家薬籠中のものとした後、そこから熟成されてくれば「破調」的な独自のスタイルの木工を産み出せば良いのです。

hr

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  • ひよこ雛はぴーピーやかましくネットの中で
    元気な証拠です。材木・道具屋の餌食にもやくだち
    スキルがない軽いもんはそれなりに
    キリハリ木工で、いずれ離脱沈没モクズ
    鉋屑もでないでサンダー派。
    真っ当な正調仕事を見たこともないのだから
    夢多く錯覚しておさらば板しか他ない。
    腕があっても仕事亡しでは
    いたしかいなし。
    生涯これで食べていく覚悟あれば未知をたずね
    学習して身体記憶もでき
    手元ぐらいは成田山
    腕手足鈍く、口達者連は表通りを歩く。
    寡黙でも芽を伸ばす才能はひかり、3パーセントは優秀かと。
    せめて水くらいはたむけませ。

    ノイズ枯れ木は山野賑わいかと
    キコレーズ

    • 昨今、若者に向かい口うるさく意見する年寄りもさっぱり見なくなりました。
      電車の中などで傍若無人に振る舞う輩がいても、観て見ぬふり。
      咎め立て、逆ギレされても、周囲は知らんっぷり。
      皆が皆、我かわいさに、社会的公正など無きに等しい、寒々とした光景。
      世知柄無い世の中になったものです。

      本件のような、口やかましい投稿を試みるなどという酔狂な様は、
      このBlogで見られるくらいでしょうか。

      前にもお話しされていましたが、親方と弟子の関係、徒弟制度とまでいかずとも、
      給料を与えつつ、修行させるわけですが、それでも安いと愚痴られては、
      親方は途方に暮れるしかありません。

      一概に弟子の考え方が間違っているとまでは言いませんし、カネが全ての薄っぺらなこの社会に生きてる以上、やむを得ない面があるにしても、正調な木工を備えるためには、相応の覚悟と、意欲が求められるということを自覚することも必要でしょう。

  • 親鸞のいう
    「今三界皆我有也」
    時代が寒々としてくるのは
    繰り返しますね。
    木の手仕事は、細菌叢マイクロバイオータに
    囲まれ生理・精神域ではまともな生体環境維持ができる
    ストレスレス数少ない仕事ではないかと。

    目立つのは声が大きい、スキルよりおしゃべり上手。
    現場向きライブタレントですがに。

    「へたくそ」半人前がとかく目立つのは危ないからで
    生涯現役で仕事が出来れば幸いです。

    原始時代は、皆サン自営大工木工職でした。
    奈良時になると木工寮 官職ができてからおかしくなった。

    それから早1500年、技量はエレベータ、
    鋸斬りで喧嘩など任侠的荒くれ職人は絶滅したようです。
    芸技を身体記憶するには年増では手遅れ君。

    ネットのヒヨコさんは怪我亡き様
    お身御大事に。

    キコリーズ

  • 緋桂
    抽斗は
    落ち着き
    雰囲気いいねぇ
    ラッカーを塗ると
    10年後はいい味になる。
    いま桂材は市場になく稀少材。
    鉋削りの感覚も独特で綺麗すから
    腕があがったように感じるのですた。
    ハイ。

    • おっと、Twitterへのコメントですね。

      緋桂」って言うんですか。
      一昨年、桂の丸太2本を挽き、乾燥を終えたので使い始めています。
      ここ数年、榀を使っていたのですが、木質としては桂が数段上。

      抽斗側板材、中にはアガチス使うところもあるようですが、あれは木では無く、草、と、戒めたのは親方でした。
      何も知らぬ頃、材木屋からイエローポプラという朴に似た木を売りつけられたものの、プロペラの如くに反りまくり、大変な目に遭いました。
      似て非なるモノ、

      先人が部材、部材に、どんな材種を使ってきたのか、こうしたことに学ぶ意味はとても大きいですね。
      やはり、抽斗側材は、桐材を別格としても、■桂■■朴■■榀■、このあたりですね。

      ・・・恥ずかしながら、前板はホワイトアッシュ。
      自家消費、作業室のキャビネットですので、お許しを。

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