“プロダクト的思考”と“手作り家具”(その3)
前回の投稿から間が空いてしまいましたが、そろりと再開します。
ある若手の木工職人が廃業に至ってしまった作業内容が抱える問題の検証に関わる話でした。
あらためてそれらの問題を挙げますと、以下のようでした。
- 框組の加工に習熟していない(正しく理解されていない)
- 木取りにおける寸法基準が多様に過ぎる
- 設計上、枘の割り付けの非合理性
- 教育訓練の問題(親方の問題)
4つのうち、1〜3は技法的な課題で、それぞれ相互に関連する事柄と言えるかも知れませんので、まとめて考えていきましょう。
これらの技法的課題は木工全般からすれば、ごく一部の領域の問題でしかないかもしれません。
しかし、だからといって安易にスルーしてしまえるほどには些末な問題では無いでしょう。
いわゆる家具という1つの造形物を構成するためにはいくつもの部品、エレメントが関わり、これらが有機的に結合され、目的とする機能を満たし、かつ美しいフォルムを産み出していきます。
これらの技法は、いわば目的とする造形物を作り下げるための欠かせぬプロセスであり、またその品質によって、できあがりのフォルムもディテールも決まってくると言っても過言ではありません。
また、一方において、この巧拙は生産性にも大きく関わって来ることはご理解いただけるものと思います。

少し具体的にお話しましょう。
ある展覧会で見掛けた、水屋のようなキャビネットに施されていた柱と棚口の見付け部分の意匠を拝見し、ちょっと驚くことがありました。
柱と棚口には1分ほどの角面が施され「あぁ、丁寧な仕事をしているんだな」と思ったものでした。
欅の良木を用い、拭漆でしたので、その品質に見合う良い仕事だと感心させられたのでした。
しかしその思いは次の瞬間打ち砕かれ、落胆させられたのです。
施されていた角面は、接合部位で止まっているのです。
いや、繋がってはいるのですが、連続したものではなく、縦、横が分断されてしまっている。
つまり、組みあがってから、角面ビットを装着したトリマーなどで面取りしたのでしょうか。
したがって接合部は、当然にも角面を廻すことができず、その欠落した部位だけ、ノミなどでそれらしく回したのでしょう。
既にお気づきのことと思いますが、この部位は「蛇口(馬乗り)」あるいは「面腰(腰おち)」などの仕口で接合させるべきところです。
「蛇口」あるいは「面腰」などの仕口を施し、ここにあらかじめ面処理しておき、組みあがれば綺麗に連続的に面が繋がり、事後にすることは何もありません。
右の画像は、私の「櫃」といいうキャビネットの一部ですが、柱と正面の棚口は面腰で納まっており、ここに1分の紐面が施されています。
1分〜の面腰さえ施して置けば、どんな面形状であれ、連続的に綺麗に繋がります。
たぶんこれらは、訓練校などの基礎的学習のカリキュラムに必ず盛り込まれる課題の1つです。
これを修得しておかねば、まともな扉1つ作れませんので、必須とも言える課題です。
たぶん、先に上げた作者は、力を込めて作り上げたであろうキャビネットも、そうした基礎的な技法を投下することができず、残念な結果になってしまっているということです。
同じような問題ではいくらでも挙げることができるでしょう。

もう1つだけ挙げましょう。
ある木工家の扉の接合部位のことになりますが、
この接合部位はシンプルなイモで接合しているのですが、この縦框と横框の接合部位にはそれぞれ1分ほどの大きな面が施され、スマシ顔。
つまり、一般には組み上げた後、ツライチ(接合面が平滑である様)で接合させる積もりでも、わずかなチリ(接合面に段差がある状態)が出てしまうのは避けがたく、この接合部位は組み上げた後、手鉋で平滑にする工程が欠かせません。
ところが、この接合部位にあらかじめ面を取っておけば、多少の面チリなどどうでも良いわけで、無視できるということになります。
いわゆる量産家具の安物には比較的一般に見受けられる「逃げ」の手法です。
- 先に上げた蛇口、面腰などを、やや高級な仕口とし、
- イモではあっても、綺麗に平滑な接合を果たしているものを標準とすれば
- この面取りで「逃げ」ているものは貧相なグレードということになります。
やってはいけないとは言いませんが「手作り」を謳い、高額な価格で市場に出回っていることを観れば、あまりにも哀しくなります。
メチ払い(接合部を平滑にするための作業工程)を面倒くさがり、過度に生産性の向上を狙うというのは、私が語るところでのプロダクト的思考とは、似ているように思われるかもしれませんが、それとは非なるものです。

これら2つの事例を踏まえた上で、考えを進めましょう。
さてところで、なぜこうした稚拙とも思えるような水準が幅を利かせているのでしょう。
私自身、とても不思議でなりません。
木工という工芸は数千年にわたる歴史を有し、先人が遺してきた技法の体系を持ったもので、いくらでも参照できる対象に恵まれています。
数千年の歴史に耐え、洗練されてきたこれらの基本的な技法を修得し、これに踏まえることで、その上に自由な造形や意匠を展開することも可能となり、木工の世界はさらに拡がっていくことになります。
そうした普遍的とも言える基本的な技法をなぜ現場で投下することができないのでしょうか。
結論から先に言えば、基礎的な技能修得に問題があったからだろうと思います。
これらの基本的な仕口を自家薬籠中のものにしていれば、イモで接合する仕口と較べ、作業時間が大幅に超過するものではありません。
その作業量は、生み出される成果の大きさ、品格の高さからすれば、何ら苦になるほどのものでもないわけで、出し惜しみしているとはとても思えません。
考えますと、これは、訓練校など基礎学習過程での技能修得、そしてその後、木工の現場での経験などを通してもなお、独り立ちするだけの修得が果たせなかったからでしょう。
冒頭に挙げた4つめの教育訓練の問題に繋がってくることになります。
このBlogへの辛辣、かつ有益なコメントを寄せてくれるABEさんが度々指摘するところの、親方筋がいない職人修行の哀しさ、というところにも帰因する問題と言ってもよいでしょう。
確かに、私自身、信州での基礎訓練に踏まえ、横浜家具の職人であった親方に学ぶことで、日本の木工家具のある種のスタンダードを修得してきたことからも、その指摘には深く肯かずにはおられません。
あるいは口幅ったい言い方になるかも知れませんが、そうしたことを学ぶ契機を掴み取ろうとしてこなかった職人であるとすれば、木工を代々継承し、遺してきてくれた先人への敬意を疎んじるものでは無いでしょうか。
すべからくイージーで、軽薄な文化に陥りつつある日本の現代社会にあっては、さも当然であるかのようにです。
さらに少し詳しくみていきましょう。(続

キコル修羅ABE
2016-5-2(月) 09:34
きわめて本質的です。
かみしめて読みます
これからあさごはん
作図がとてもわかり
コーフィがおいしい
きこらーず
キコル修羅ABE
2016-5-2(月) 13:54
明治期は、徒弟学校といいました。工場の工員養成コースです。
敗戦後は、訓練校に改組、経済高度成長期に他の産業に若手人材を奪われ
社会的身分が低いので高等訓練校と名前を替えました。
更に木工#3K産業最低賃金では危ないので、技術専門校になりました。
文部省管轄学校制度ではない労働政策職業養成課程でした。
最近は、木工造形科とすると 学卒・失業保険組が押し寄せ、六倍の狭き門。
教えるひとは、一流ではありません。一年制、徒弟育成基本しか教えられません。でも、卒業生は,作家になれたような気分です。
一生食べていける技能は、どこで身につける?
一体全体、誰が面倒みるの?でしょうね。
手を尽くすはずのプロが訓練校落ちを食い物にしている。
授業料を払い、技専先生は尊敬されるが、親方は給金を払い教えても文句をいわれ、先生は恩給あれど、親方は退色年金もなし。
尊敬されません。失業保険は適用外。手足となって技術・感覚を養うのがやなんです。親方は怒鳴るし。プライドが許さない。
でも指揮者音楽家はちがいますね。師事しないと先はない。
年長ベテランに面倒を見てもらうのが「うざい」では、直伝相伝 impossible。
こうして訓練校は不良チンピラ再生産をしながら痩せていきます。
卒業して直ぐに作家気分で出ビュー。まこと錯覚です。
基礎訓練校しかないという長年の不作為、怠慢は、知名的ですね。
ウロウロしていたら連れてきて飯を食わせ、生きていけるように手を尽くしますが、どうやらお腹も減っていない様子。簡単に格好良く「スタイリッシュに工芸作家」志向はバブルです。原宿で石を投げればデザイナーにあたるとか。
先が読めないといいますが、足元すらみていないのでは。
ドイツ・スイスのように数年かけて訓練大学をでたら専門職として産業社会が受け入れる技量を身につけることができる仕組みがないのは、教科公務員の不作御粗末。高校専門課程・技能訓練校から大学・大学院へいけるみちがない。
高度な仕事を見たことも無いので、スプーン・へれへら。
「図面書き、木工のスキルがあれば、ツブシがきく」そういう時代は去り
路頭に迷う青年あわれ、年配は哀しい、年寄りは寂しいのです。この徒鉄もないミスマッチは私の脳力足らずと夢限責任です。ハイ。
では、松本の県公園あたりでぶつかればその人は幸運なアクシデントかと。
不悉ながら川、ならい川
木之ーズ 十四世より
artisan
2016-5-2(月) 23:16
木工も、他の工芸同様、伝統的なものとして認知され「モノづくり大国」などとおだてあげているようで、実はご指摘の通り、社会的に正当なポジションなど与えられてはいませんね。
冷たい国です。
欧州のモノづくりへの手厚い社会的基盤は羨むほどのものがありますが、この彼我の差がどこからくるのかと頭を抱えてしまいます。
たぶん、日本における近代化の履き違いが、修正されること無く今に至っていることにも問題の核心を視ることができると思います。
生産効率性の高い工業のみを支援させ、アナクロ的な産業など市場から退場させてしまえ、という産業界Topと政府の陰謀でしょう。
そうした市場が全て、カネが全てのネオコン的な経済支配はリーマンショックで完全な失態を突きつけられたにも拘わらず、相も変わらずアベノミクスなどと浮かれつつも、実は彼ら自身、方向性を見失ってしまっています。
やがては、今のような功利主義のみが支配するような社会は頓挫し、少しは真っ当な社会へと移行するしか無いときが来ると信じていますが、その時、どれだけの工芸的な資産が残っているが鍵なのかなと思いますよ。
ご指摘のように、職人養成における現場の苦悩は厳しいものがありますが、勘違いやら、意欲に欠ける若者の退場は致し方無いとしても、気鋭の若者はいつの時代も現れるものです。
ドンキホーテほどでは無いとしましても、オポチュニスティックに構え、やっていくしか無いでしょう。
そのためには、私たちの仕事における内実において、批判に耐えるものを遺していくことでしょうか。