工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

個展来訪者に感謝

展示会も最終日を迎え多くの来訪者にめぐまれた。
遠くは東京、京都、そして岐阜、長野などからお越し頂いたようだ。
実はこうした展示会では良くあることだが、同業の知人友人、そして若手の作り手も興味深く来訪し、ためつすがめつチェックが入るということになる。
知人友人とはあたたかい邂逅の場であり、厳しい先輩、師匠筋からは厳しい批評眼に射抜かれることとなる。
そして総括すれば、材木屋からはこの価格では材木の価格にしかならない、と叱られたり、テーブルなどの展示方法は間違っている、あれこれと小物を置くべきではない、と。
もっと作品としての品位に合わせた展示を心がけるべきではないかと言う。
まだまだ試練が足りませぬ。反省 \(__ )
このように厳しいアドバイスを頂くと共に、一方では購買意欲のある客と同席すると、作品の解説を出品者に替わりしてくれたり、材種によってはその入手の困難さを説き明かし、価格でもいかに安価に設定しているかを話してくれたりもするので、ありがたい。
今回来訪者の新しい現象としてやはりこのBlogの読者が大勢見に来てきれたことだ。そのほとんどはコメントなどのアクセスはいただけなくとも興味深く見続けてくれている読者だったのだろうと思う。
残念ながら顧客との会話、打ち合わせなどで、そうした方々との十分な交流ができなかったのは残念であったし、申し訳なかったことと思う。
できれば積極的に声を掛けてくれさえすれば、快く応ずることもできたかと思う。


しかし残念なことも起きうる。
お二人で来られた作り手と思しき来訪者が大きな声で作品についての批評をしていた席に、このギャラリーの古くからの顧客が訪れ、オーナーが招き入れる。作品をじっくり見てもらおうにも、この作り手たちの周り憚らぬ会話に邪魔され落ち着かない。
業を煮やしてギャラリーオーナーが目配せ、手配せで諫める。
これはボクが留守のところで起きたことであったようだが、その話は決して過剰に脚色されたものとも思えず、むべなるかな、という感じのものではあった。
それらの所業には、同じ作り手としてとしての責任で謝罪するしかなかったのだが、こうした同業者による鑑賞スタイルの問題は決してめずらしいものではない。
作品の技法が気になるのか、例えばキャビネットの抽斗を乱暴に引きだし、ためつすがめつひっくり返してみたり、叩いてみたりと、おっかない粗暴な扱い方をする人も少なくない。
ボクにも様々な工芸作品を鑑賞する機会も多いが、そうしたぞんざいな見方をするまでもなく、見え掛かりを凝視しさえすれば、その作品の力も、作者の水準も十分に推量できるものである。
内部の仕口などをどうしても見たければ、会場担当者、あるいは作者がいれば直接その旨願い出れば良いだろう。多くの場合快く応じてもらえるものだ。
以前にもギャラリーでの展示について記述した折にも述べたことであるが、顧客が数十万円を出してある作品を購入するというのは、いかに購入への欲望があったとしても、大きな飛躍を遂げることなくして契約にたどり着くものではない。
その飛躍というものは、気に入った作品へのより確かな価値評価を加えることなどで、確信へと高まっていくものであり、この要素というものは多くの場合ギャラリーの側の、あるいは作者の側の作品の品質に見合う品格あるいは人間性というものを感じ取ることが購買の飛躍へのトリガーになっていったりするものなのだ。
喧噪な工場内で交わされるような会話が飛び交う中で、じっくりと数十万円もするような買い物はできるはずもない。
展示会場というものはボクたちにとって、あるいは顧客側にとっても真剣勝負の場であると言ってしまうと過大かも知れないが、コンビニでその日の食欲を満たすものを売買するようなものでは無いのだということは理解していただけるだろう。
なお、今回大きな屋敷の解体、改築に伴う、古材の再活用での家具製作の依頼を受けるということもあった。松材と檜材で2石ほどの材積。50年ほど経過しているものだが、再製材してどのように応力が解放され、歩留まりがどの程度になるか楽しみでもあり、不安なことでもある。
あらためて期間中の来訪者には心からの感謝を申し述べたいと思う。
ありがとうございました。

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