工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

個展残務の日々

礼状
松坂屋個展の後片付けもまだ残っている状態で、なかなか次の制作へと移行できないのがもどかしい。
出展作品の傷チェック、再塗装、再梱包、そして制作依頼された別注の設計見積、書類整理、礼状の作成、発送と多くの雑務を進める。
先の記事(個展を終えて)でも記したように、大小様々な展示家具の買い上げとともに、顧客の方々には熱い視線でご覧いただき、暖かい励ましを受けるなど、個展開催に向けての制作、および膨大な準備活動からくる疲労も吹き飛ぶほどの高揚した日々を過ごし、今もなおその残り火が消えやらぬままに日々を送っているといった感じだ。
こうした非日常の時空からはいち早く抜け出て、淡々とした制作活動の日々へと切り替えていかねばならない。
そうした日常へと移行する前に、少しく個展の裏話でもしてみよう。


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ボクの展示会活動のスタンスは、いわゆる企画によるものがほとんどで、貸画廊で頻繁に積極的に打つということはしていない。
それほどの制作態勢にもないし、2年に一度から二度ほどの画廊、ギャラリーからの出展依頼に応えるのが精一杯だ。
中には、いつ工房で造っているの?と不思議に思うほどに全国ツアーでの展示会を年がら年中行っている作家もいるらしい。
その途上で客死したという作家もいるという話を昔聞いたことがあった。
非日常であるはずの展示会を日常のものとして日々を送るというのは、ボクなどには過度の心身へのダメージで客死してしまうのも宜なるかなという感じだ。
今回は50平米の空間があったので、様々な家具、小木工品を展示させていただいたが、レイアウトに困るほどに運び込んでしまった感があり、やや顰蹙ものだったかもしれない。
もっと空間を活かしてゆったりと展示すべきだったと痛く反省している。
ご覧になった方はお分かりだろうと思うが、様々なジャンルのものを展示させていただいた。
キャビネット、テーブル、椅子、他小木工品、照明、etc.
またあえて言えば作風も一様ではなかった。
日本の伝統的な様式に準じたものもあったし、モダンなテイストのものも少なくなかった。
しかし基本としては日本の伝統的様式に踏まえ、これを換骨奪胎しながら、シンプルでモダンなデザインで表現した積もりだ。
デザインに詳しい人が見れば透けて見えるかも知れないが、隠しもしない、いわゆるアーツ&クラフツ様式にルーツを持つものが多い。
例えばソファであり、あるいはラウンドテーブルなどはその典型。
これを日本の伝統的木工の近代的解釈による制作手法によって造形したものだ。
これをオリジナルと見るか、デジャブなものと見るかは、それぞれの鑑識眼と、美術史、思想への評価によるだろう。
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ところで今回は「木工家ウィーク」ということで同業の方々による観覧も多かった。
そこでだが、木工に従事する来場者とお話しさせていただいても、なかなかデザイン、造形など、その家具の本質におよぶような話にはならないのがもどかしいところでもある。
材種とか、仕口とかの興味は強いものがあるようだが、造形、デザイン、フォルム、様式などへの言及は本当に少ない。
こうした展覧会という良い機会であるので、そうしたところへと話が及ぶことで、相互に刺激的で実のある交流ができたのにと悔やんでいる。
実は今回の個展にあたり、主催者の百貨店サイドに「木工家ウィーク」との協賛ということでもあり、営業時間外に少し時間をいただき、興味のある方々にお集まりいただき、作者による出展作品の解説でもできればと提案したのだが、管理上無理と言うことで実現しなかった。
一方「木工家ウィーク」では様々な展示企画があって、そうした試みに似た企画内容で展開されたものもあるようだが、その多くは夜の時間外での楽しい“相互交流”の方へと費やされてしまったのかもしれない。ボクも何度も誘い誘われた身ではあるけれど。
他者の作品を相互批評するという作風は、どうも今の若い人たちには苦手なようだ。
いわゆる同調圧力が強い傾向にある今の日本社会にあって、ボクのようにインディペンデントな立場から独自の批評的視座をもって自己分析し、あるいは友の作品を批評し、相互に議論し、そして高め合うという方向性へと自らを押し立てていくという“普通のこと”ができない。
そうしたことを促そうとすると、むしろ排除の論理で排斥されてしまう。
その人が精魂込めて造ったであろう思いというものを、造形的視点、独自の仕口などの内容を対象としてその作者から提示してもらい、そうしたリソースを共有し、それを褒め称え、あるいは批評する。そうした開かれた場を共有することがもっともっとあっても良いだろう。
そうしたことを臆することによって、いつまでたっても作風、品質での伸び代は捨て置かれ、ぬるい空気の中で知らず知らずのうちに衰えていく。
稀に人によっては強い自我に支えられ、その個人的な努力、研鑽によってのみ、次の高いステージへと向かっていく。
ま、確かに、個人の力によってしか為し得ない工芸、モノ作りという世界とはそもそもそうしたものだろうから、所詮そんなものか。
J・クレノフも「・・・Notebook」の中において、孤独に苛まれながらも揺るがずに己の道を進むことの大切さを説いていたと記憶している。
しかし若いこれからの人々には、孤独なところに押しやるのではなく、共有の場を与えてやることがキャリアとしての社会的使命であるように思うのだが‥‥。
ただ言っておかねばならないが、今回も幾人かの有能な若い作り手に出会うこともあり、ボクは全く木工界の未来を案じているわけではない。
キラリと光る逸材がそこかしこに見え隠れしているものだ。
そうした若者に勇気を与える言葉を掛けるのも、ボクらの役目だ。
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いつの時代も、社会のつまらない非本質的な動向に振り回されることなく、初発の意志を捨てずにひたすらに前に向かって押したて、自身の世界を打ち立てようとする若者が次から次からと、生まれ出てくるものだからね。
時としてそうした芽を摘み取る、つまらん大人どもがいるから注意せねばならないのだが。
今日は名古屋の参加者でもある木工家からの電話があり、その中で様々な話をしたのだが、この国の今の経済社会の混迷だけに活気に欠ける理由を求めることの危険性というものをつくづく感じさせられてしまったこともあり、こんな話になってしまった。
閑話休題。
昨日のサッカー日本代表、W杯前最後の国内壮行試合となった対韓国戦。
ありゃなんだい。試合内容もさることながらだが、
監督が協会会長に“進退伺” ?? 
またそのことを記者会見で開陳 ??。
これは本戦を戦う前にして敵前逃亡に等しい所業だね。
指揮官としての最低限の資質を問われかねない振る舞いではないか。
せめて一年前か半年前までに吐露したならば軌道修正も可能だったかも知れないが、事ここに及んでの物言いとしては全くタイミングを逸している。
この一言は選手たちに戦慄が走り、疲れた身体に取り返しの付かない深い傷跡を残してしまった。
嗚呼‥‥。

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