工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

♪〈死んだ男の残したものは〉

明日11日は参議院選挙、投票日。
ボクは事情があり、告示日の数日後に期日前投票を済ませている。
迷った。選挙区には投票したい候補者がいない(確か、先の衆院選でも同じようなことを言っていたっけ)。

比例区では、政党名ではなく、その政党の候補者に入れた。
与党民主党、鳩山首相がこけて、継いだ菅直人氏、一時はV字回復などと言われたのも束の間、何を勘違いしたか、突然上がったのが消費税増税のアドバルーン。
じりじりと支持率を下げるのも当然。

膨大な財政赤字を抱えた日本という現状を知らぬ人などいないが、単に負担増を忌避する選挙民というだけではない、党内議論を経てのものとも思えないその持ち出し方であるとか、ギリシャの破綻を事例に挙げ、選挙民を脅するというような、その手法に不信感が募っているのではないのか。


昨年の衆院選の結果もたらされた政権交代は大きな高揚感があったが、これは鳩山が語る日本の未来(沖縄問題を含めてのそれ)、理念に、それまでの自民党支配体制とは明らかに異なる、新たな民主政治の曙光を見せられたからに違いない。

確かに政治手法は稚拙だったのだろう、最後は防衛、外務官僚にしてやられてしまった沖縄問題での迷走、挫折、政治と金の問題などで頓挫してしまったものの、いくつかのことにおいて、日本もこれで何とかやっていけるのでは、との希望を見いだせたものだ。

ここでは詳しくは触れないが「新しい公共」という概念を明確に掲げたことにボクは政治の世界の大きな転換を見る思いがしたものだった。
ただのお坊ちゃん政治家とは異なり、鳩山の良質な政治理念が語られていたように思う。

ところが鳩山がこけたからといってそれを継いだ首相は、沖縄選挙区に与党であるにも関わらず候補者を立てず、沖縄にはアンタッチャブルの姿勢に転ずる。
市民派ということなのだそうだが、鳩山の「新しい公共」を継ぐ話しなど、就任後、寡聞にして聴いたことがない。
そして突然の消費税増税のアドバルーン。なんじゃい、これって。

ところで最近「朝日新聞」がつまらないな(今さら何さ、とお叱りを受けそう)と感じていたが、1つ明らかな理由があった。
加藤周一氏の「夕陽妄語」掲載が終わっていた(〜 2008/07まで)こと。

数週間前に「しかし それだけではない。 ── 加藤周一 幽霊と語る」という映画を観た。

『羊の歌』(岩波新書)にある半生と、晩年の活動(反戦・平和の闘い)を映像化したものだが、90歳を前にして衰えぬ知性と、若者への期待は根っからのオポチュニスト然としたもので、心温まるものだった。
戦前、戦中をくぐり抜けてきた知性が一人、一人と鬼籍へと入っていくこの時代、残された者に課せられた責任が軽かろうはずもない。

加藤周一がもし「夕陽妄語」を継続していたならば、この選挙戦過程で、一度たりともまともに「普天間基地問題 ─ 沖縄問題」を語ろうとせず、スルーしてしまう管首相のその欺瞞性に対し、鋭い批評を浴びせたに違いない。
少なくともこの先、向こう6年間の日本政治の方向性を説くにあたり、盟友の前首相がこけたからと言って、いや、あるいは日本の選挙民は喉元過ぎれば何とやら、で沖縄問題など触れずに済ませられるだろ、としているのかも知れない。
事実、先のカナダサミットでは鳩山の東アジアを基軸とする外交政策をばっさりと捨て去り、矛を収め、対米摺りより、日米安保同盟強化へとシフトしようとしている。

市民派のベールは目くらまし?ただの権力志向の強い男、というところか。

今日のYouTubeは[Dominique Visse “Toru Takemitsu Songs”]から〈All that the man left behind when he died〉「死んだ男の残したものは」(動画ではありませんが)

「しかし それだけではない。 ── 加藤周一 幽霊と語る」のエンドロールのBGMに用いられた歌。

武満 徹 の声楽歌(うた)は本業の管弦楽曲とも、数限りなく作曲された映画音楽とも違い、全く力みが無くどれも軽やかで親しみやすい。
この「死んだ男の残したものは」は友竹正則、沢知恵、石川セリ、高石友也、小室等などによって歌われているが、
今日のYouTubeのものは映画に使われたものと同じもので、カウンターテナーのドミニク・ヴィスによる。
2001年に武満 徹の〈うた〉20曲を収めたアルバムを作っている。

ピアノ伴奏はFrançois Couturier(フランソア・クトゥリエ:編曲・演奏)
なぜこの映画に使われたかは分からないが、エンドロールに流れてきて、加藤周一の無念、諦念、あるいは希望へと思いは巡り、静かに胸が熱くなるのには十分すぎるほどに効果的だった。
そして「死んだ加藤周一、死んだ武満徹の残したもの」を今一度反芻し、語り継がなければならないことも確かなことなのだろう、と思った。

iTunesにもあるよ。(こちら
歌詞(英語)もYouTubeに6番まで掲載されている。(YouTubeのウィンドーをクリック)
日本語はこちらからどうぞ。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  •  「死んだ男の、、」 なつかしく聞きました。 高石友也さんの歌声、谷川さんが詩を書かれたことなど、とても鮮明な子供の頃の記憶が甦り、ちょっとゾッとしました。 僕が子供の頃にはまだベトナムの戦争が記憶に新しかった頃でしたので、漠然とした戦争に対する不安で幼心を苛まされたものでした。
     いつもやさしい友也さんが、言葉にこだわる駄洒落オジさんの谷川さんが、何か戦争に対して怒っているような印象、彼らが憤っているのだからこれはヤバい、と子供の僕は感じていました。
     「羊の歌」はなぜか、小学生の頃に父親の寝床の枕元にあった周五郎の「正雪記」と一緒に読み始め、続刊があるのに気づかないまま読み終えてしまっていました。 どちらも伝記で、読み易かったから読めたのでしょう、後に続刊を含め読み直しましたが、子供のときの稚拙ながらも「このひとがこういうからこれは本当なんじゃないかな」という感覚はまだ残っていましたし、その後「夕陽妄語」からも共通して感じていました。
     ひとそれぞれ意見はありますが、僕が工房悠さんのブログから感じることにも高石・谷川・武満・加藤各氏から受けるものと同じような印象があります。
     政治に対する自分の姿勢というものははっきりとしていたいといつも思います。

  • たいすけさん、幼少の頃の小さな胸を締め付けた(今では立派な巨躯ですが)歌を思い出させてしまったようですね。
    現代の世界のフレームワーク(戦後社会の枠組み)は当時とさほど大きく変わるものではないかも知れませんが、変革へ向けて大きく胎動しつつあるのも確かなようですね。
    基本のところでは武満徹氏も、加藤周一氏も、谷川俊太郎氏も、あるいはあなたの師匠も(御尊父)、人間社会への信頼に根ざした豊かな人生であったのではと思います。
    人間界、自然界への豊穣さへの感謝と夢を詠いあげ、不正へは限りなく厳しく対峙する姿勢で貫かれてきたのだと思います。
    ボクについては、日本におけるBlogではやや旗幟鮮明で異色に映るのかも知れません。
    損得勘定の前に、社会的不正は許せん ! という、おっちょこちょいの性格が災いしている?のかな。
    いやいや、やはり上述した先人の知性をリスペクトしつつ、そして次の世代に夢を語りたい、ということにしておいてください。 ^_^;
    たいすけさんにメッセージが届いただけでもありがたいことだと思います。
    機会があれば、この映画もチェックしてみてください。

  • はじめまして
    言語は異なりますが、トラックバックをさせていただきました。今後ともよろしくお願いします。

  • 昨夜の者です。私のブログの管理ページを調べましたところ、昨夜のトラックバックについては、"échoué" という記録が残っているだけでした。今しがた二度ほど試みたのですが、やはり失敗してしまうようです。なにか技術的問題があるのかもしれませんが、全く分かりません。ほぼ同じ日に同じ歌曲のことを考えていた方の存在を嬉しく思っただけに残念なのですが、私のコメントは無意味になってしまいましたので、削除いただいても構いません。いずれにいたしましても、大変失礼しました。

  • あぁ、Tosiさん、本BlogサービスはスパムTB対策として、日本語(2byte)が1つも無い場合、受け付けないというハードルがあるようです。
    どうぞ悪しからず。
    ただ前回のコメントに付した投稿者URLで辿れますので、そのままにさせてください。
    フランス語でしょうか。判読が難しいですが、Web翻訳サービスを利用すれば何とか・・・
    私もこれを機にWebで本件と関連する記事をいくつか探してみましたが、この歌が良い映画に使われ再び話題になるのは、ネットコミュニケーションならではの良い効果ですね。
    ありがとうございました。

  • 私がこの作品を最近強く再認識したのは六月下旬に『現代の音楽(NHKFM)』で放送された東京混声合唱団の第221回定期演奏会(三月20日)でした。演奏されたのは作曲者自身による無伴奏版で、プログラム後半には原民喜のテクストによる高橋悠治さんの新作『心願の國、混声合唱とオブリガート・バイオリンのために』の初演もありました。会場が東京文化会館小ホールだったこともあり(『夕陽妄語』が「廃墟から」と言う題で『前川國男 賊軍の将』をとりあげたことがありましたが、この本の著者である宮内嘉久さんも亡くなりました。「本はねころんで」さんのブログ参照 
    http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20091221 )、 この演奏会には足をはこぶべきだったと思っています。東京シンフォニエッタの定期演奏会では東京文化会館に結構行っているのですが。
    なお、私が書いたものの内容はおおよそ以下のようなものです。
    ヴィスたちの解釈は繊細で感動的だが、違和感も禁じえない。日本語の原歌詞は、ヴィスによって歌われた英語版より「感情移入的」な度合いが低いと思えるからである。私はむしろブレヒト=プレヴェールふうの「叙事詩的な目録」と考えている。谷川俊太郎の原テクストは、最初に死ぬ男の妻(または子供)が続いて死ぬ女性(または子供)と同一人物かどうかはっきりさせていないということも留意すべきであり、詩人はそうしたことの判断を受け手にゆだねているようにみえる。この声楽曲を聞くとき、(現在生きている)私たちの世代は、「抑圧された過去」を救済するための微弱なメシア的力を付与されているので、過去の諸世代から期待されているのだという、ベンヤミンの有名なテーゼのことを考えることが私にはしばしばある。
    「目録」という言葉は不謹慎かもしれませんが、「残したもの」と「残さなかったもの」を列挙して対比させる仕方にはプレヴェールの影響がみられると思います。仏訳の試みようなものは勝手な意訳を多く含むいい加減なものですが、上記の理由から「死んだ女」と「死んだ子供」には不定冠詞をつけました。

  • Toshiさん、詳しい解説を提示していただき、感謝いたします。
    記事中の固有名、いずれもなじみ深い方々ばかりで興味深く思います。
    ただ残念ながら私は記事内容を十分に咀嚼するだけのリソースを持たず、またその資質も脆弱なものでしかありません。
    高橋悠治さんが原民喜のテクストでの新作というのも、とても興味深いところです。
    宮内嘉久さんという方は存じ上げません。(建築ジャーナリスト?)
    一度著書にアクセスしてみましょう。
    >ブレヒト=プレヴェールふうの「叙事詩的な目録」
    という解釈はおもしろいですね。
    ご指摘の「死んだ女」をどう解釈するかは、仰る通りだろうと思います。
    私は単純にこの詞から抱くイメージとしては‥‥、
    戦争という行為は国家による極限的暴力の発動で、大きな災厄をもたらすわけですが、多くの場合こうした実態を覆い隠し、美化させようとする勢力もあるわけです。(無論、国家もその側に立つことで、はじめて総力戦が可能たり得るわけです)
    そうした戦争行為に伴う欺瞞性というものを、動員され、死んだ兵士、そしてその家族の具体的姿を通して描いたものと考えています。
    斃れた兵士は「何も残さなかった」のですが、
    5番、6番において「輝く今日とまたくるあした」に、希望とともに、死んだ兵士に継いで歴史を作っていく「生きているわたし生きてるあなた」の責務が説かれているように思います。
    シンプルですが、普遍的なものとしてのカント的倫理が貫かれているように思いますね。
    英訳の経緯、その版権など、少し興味も出てきましたが、またご教示いただければ幸いです。

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