工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工界の意外な繋がり(私の椅子+α展)

九つ井
横浜で現在開催されている「私の椅子+α展」への出品作家の8人のうち、初めてお会いする人が3人いた。
般若芳行さん、吉野崇裕さん、藤井慎介さん達。
しかしプロフィールを見たり、お話しさせていただくと、意外なところで繋がっていたりして一気にうち解けるということがあった。
般若芳行さんは、金沢美術工芸大学の出身で、現在は木曽の山中で制作活動している気鋭の木工家(般若なんてかっこいい名前だね。埴谷雄高という思想家、文学者がいたが、彼の本名も般若だったと思うー関係ないけど)
もしやと思い、金美の教授の名前を挙げてみれば、般若さんの指導教官だったと言うではないか。


村井さんという人のことだが、金美卒後プロダクトデザインをしていて、ある時期思い立ってストックホルム、カールマルムステン校に留学(このブログにLinkしているikuruさんの先輩ということになる)。その後静岡でアトリエを構えたということがあり、一時期ずいぶんと世話になった。
その後恩師に請われ金美の助教授に納まり、現在は同校でプロダクト、なかんずく家具デザインを専門とする教授だ。
般若さんがメーカーにデザイナーとして社会人をスタートさせたものの、木工制作への願望がもたげ、恩師村井さんに相談したところ、「木工なんて食えるわけがないから絶対反対だ…、何を考えているんだ…」などと叱られたそうだ。
恩師にしてみればごく当たり前の教え子への愛情の表現か。
(でも内心嬉しいのではないかな、村井さんも)
お若い木工家なので、様々な習作を試みながら自身の作風を求めているように感じるが、ガンバッテ欲しいと思う。
藤井慎介さん。彼も30代半ばの気鋭の木工家。
同じ静岡県下で活動している人だがこれまで知らなかった。不明を恥じます。
国画会、日本伝統工芸会へ積極的に出品している伝統工芸的アプローチの人と見て良いだろう。
刳り物を得意とする。しかし今回も秀逸な椅子をものにしているところを見れば、なかなかフレシキビリティーあふれた若者だ。
お話しさせてもらうと、木工の基礎を学んだのは松本の職業訓練校(「松本技術専門校」木工科)。実は指導教官(遠藤さん)もボクと一緒だった(上述の村井さんとも交流のある教官だ)。
このような繋がりはたまたま、ということに過ぎないだろうけれど、魅力ある木工をしている人が実はさほど違ったところでのスタートでは無いのかも知れない、などと思ったりする。しかしその後の歩みはこれまた様々だけどね。
同じ出自でも、どうしてこのように品格が違うの?、等といった問いには答えません(苦笑)。
もの作りに限らず、基礎を学んだところでのその後の影響というものは顕在的か、潜在的かはともかくも、大きく反映してくるものだろうと思う。
その校風、および指導者から何を学んだかで、初発の意志が形成されるということもあるだろう。これがもの作りとなるとその技法という大きな構成要素が作風に微妙に影響すると言うこともあろう。
先生、村井さん、世話になりっぱなしで無沙汰してます。いつまでも愚かな生徒でゴメンナサイ。
今日は60回目の長崎「原爆の日」。静岡からヒッチハイクで平和公園を訪れたのは18の時だった。長崎の町はどこも印象的だったが平和公園の佇まいは格別だった。
被爆者代表の「長崎の地を最後の被爆地に」の思いを共有したい。

《関連すると思われる記事》

                   
    

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.