工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

熱い夏(政治決戦)

長い長い梅雨を越え、やっと安定した夏空がやってきたようだが、短くなってしまった夏を精一杯謳歌している人も多いことと思う。
良い思い出をいっぱい作って、秋を迎えたいものだ。
この夏は日本列島からなかなか去らない梅雨空とは逆に、熱い政治決戦が繰りひろげられていて、こんな日本ではあり得ないのかな、と思わされてきた政権交代が現実の日程として間近に迫っている。
考えても見れば保守合同以来、55年体制と言われた盤石の如くの保守政治(と、それを補完する野党勢力という政治地図)が、これほどまでに長期にわたって継続してきたことの方が信じがたい夢のような話しではないか。
未来永劫に続くかのように装われてきた自民党政治支配もいよいよその延命力も断たれ、終焉を訃げる時がやってきたというわけだ。
いや、無論今月30日の投開票日を迎えるまでは、こうした結論的な物言いは憚れることなどは承知の介であるが、今やほとんどの情勢分析は現在の自民党保守政治に最後通牒を突き付けているようでこれは動かしがたいものであるようだ。
与党の古参政治家さえもが、公示前であるにも関わらず「せめて良い負けっぷりを‥‥」などと吐露していると報じられているが、これでは終盤にもなればかつては余裕の哄笑で締め括っていた古老さえもが土下座での必死の訴えという映像が駆けめぐるようになるのかも知れない。
直近のいくつかの地方選挙、首長選挙において自民党候補は連戦連敗、民主党候補、反自民党候補が圧勝するまさかの状況。
あるいは各メディアによる世論調査が示す支持政党の勢力地図は、驚くほどの数値で自民党勢力の劣勢を示して余りある。
こうして今や来たる衆院選挙での関心は、民主党、および野党勢力側が、もはやどれだけの圧勝ぶりをもたらすか、つまり野党勢力での過半数を取る、あるいは民主党1党での過半数達成すら取りざたされるという状況であるようなのだね。


いやはや、変われば変わるものだ。
この8日から横浜のギャラリーでの椅子展に参加しているのだが、前回の「私の椅子展」出展の2005年の夏が丁度衆院解散選挙にあたっていて、横浜へと車を走らせながらカーラジオから選挙情勢を聞かされていたことを思い出す。
その票読み予測に日々ハンドルが重くなっていったものだ。
結果は、コイズミ自民党の圧勝。
この時は郵政選挙と騒がれ、与党勢力の中の郵政族を始めとする郵政民営化に反対した自民党前議員には公認を与えず、時代劇でもあるまいに「刺客」などと怖ろしいネイミングがされたコイズミチルドレン(これも何だか変な命名だ)たちを擁立し、ばったばったと野党候補を蹴散らした。。
こうして公明党と合わせ、議会の2/3を占めるに至った。
東京、千葉など首都圏では民主党は壊滅状態だった。(かつては自民党の支持基盤というものは農村など地方に置いていたものだったが、この2005年衆院選では都市のいわゆる浮動票を圧倒的に獲得するという新たな状況を見せていた)
まさに自民党勢力のバブルが起きてしまったのだったが、結果、苦渋と諦念の日々が待ちかまえているのだった。
この間、確かに首相の椅子に座ったのは思い出すのがちょっと難しいほどに、シャッポはすげ替えられ、また時代も変転したのだが、そしてわずか4年後にこのように勢力地図が大きく塗り替えられるとは一体どういうことを意味しているのだろう。
人の世とはかくも浮き草のように定まらないものであるのか。
投票行為における支持政党が猫の目の如くに移ろうというのは、ボクが理解する社会通念からは大きな隔たりがある。
つまり、選挙権を持つほどの年齢にもなれば、それなりに定見というものが備わってくるものだろうという認識からすれば、ここ数年に見られる極端なまでの支持政党、政治選択の変容の乱高下というものはいささか理解を超える。
考えられることとしては、各政党がその依って立つ政治理念を大きく転換し、それに影響を受けて支持者が支持党派を変えるということはあり得よう。
さて対象とする党派がこのような政治理念の転換を見せたということなのだろうか。
いや、それは正しい認識では無いように思う。
基本のところで何も変わっていないのにも関わらず、大衆、つまり選挙民の方が変わってしまったというのが冷静で公平な分析ではないか。
2005年、人々は「純ちゃ〜ん」と囃し立て、もてはやし、これにまゆを潜める人々には「抵抗勢力」として切って捨てるという、実に単純極まる二項対立のドグマに陥れられてしまった。
そしてわずかに4年の月日を経たこの夏、同じこれらの人々は手のひらを返すかのような勢いでこれにNONを突きつけようとしている。
確かにこの間の日本社会の疲弊、経済の低迷は目に余るものがある。
「郵政選挙」というものは、実は米国からの「年次改革要望書」(「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書」)を竹中ー小泉が受け、120兆円を超えると言われる「かんぽ」資金を市場に投げ出すことであったわけだが、日本の経済、社会というものをこれに象徴される市場原理主義へとシフトチェンジすることを問うものだった。
結果、見事なまでにしてやられ、雇用関係はズタズタにされ、地域経済はどん底に疲弊し、年金制度の崩壊が露顕してしまうと言う、まさに戦後最悪の時代を迎えてしまった。
そして人々は自分たちが行使した政治選択の結果をどのように総括しているのかは知らないが、きのうは油っぽいステーキを食べちゃったから、今日は冷や奴でも‥‥、というような食事メニューの変化を楽しむが如くに、支持政党を代えようとしている。
如何にもバラエティーに富んだ食生活のごとくでこれもまた日本的であるのだろう。
明日は8月15日、敗戦を記念する日だ。
ボクは終戦記念日などという「日本的な」曖昧な表現はすまいと思う。
「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」などのキャッチフレーズから、手のひらを返すように「平和国家」、「民主憲法」を掲げ、ひたすら経済大国への道を歩んできた日本とその「臣民」。
「日中戦争」「太平洋戦争」では日本人310万人の犠牲者があり、一方中国を始めとし、アジア全域にわたる侵略戦争の結果、2,000万人とも3,000万人とも言われる犠牲者を産み出してしまった。
それら数字の1つ1つに刻印されるかけがえのない「いのち」を断ってしまうむごい戦争の時代というものがどのような背景から産み出され、その結果、64年を経た現在にどうのような禍根を遺してきたのかは、知るべき大切なことの1つであるだろう。
なぜならば、未だにこの戦争がもたらした結果に苦しみを覚える人がいて、また北東アジアにおける国家間のせめぎあいの影で人々は苦しんでいる。
ヒロシマ、ナガサキがそれであり、また中国との関係における緊張関係、あるいは北朝鮮との国交断絶状態もこれに加えなばならない。
ここ数日、TVメディアを始めとして、様々な戦争特集が組まれることだろう。
その多くは戦争の悲惨さを訴え、涙を誘うものとなるのだろう。
しかし、64年を経過して、一方ではオバマのプラハにおける「核廃絶」へ向けての鮮烈なメッセージ(アメリカは核兵器を使用した唯一の核保有国として、行動を起こす道義的責任を有する)が出されるというある種の画期を記した2009年なのだが、対しこれを受け、我らが宰相は「核の傘無くして日本の安全保障はあり得ない」との聞き飽きたフレーズを繰り返すだけ。
非核三原則という「国是」がウソで塗りたくられてきたこと(日米の核密約)が最近様々な資料、当事者からの声で判明しつつあるにもかかわらず、糊塗することに懸命な為政者たち。
これではヒロシマ、ナガサキにおける真の強い訴えにはなり得ないだろうし、あるいはまた北朝鮮当局による「日本人拉致事件」が小泉首相による2002年日朝首脳会談以降、1ミリの進展も見ないという本質的な要因が一体どこにあるのかが見えてこないだろう。
そろそろそれらの本質というものを考えて見るべき時期なのかも知れない。
つまり、ただただ被害者然とした受容の在り方、報道のスタンス、外交交渉は国内では一定程度の理解を得るかもしれないが、しかし一歩国境から出た途端、こうした思考の在り方、訴えはほとんど有効性を持ち得ないばかりか、その独善性、歴史認識の浅さに呆れられてしまうだけだろう。
食事メニューを日替わりで楽しむのは1つの文明の有り様かもしれないが、他者を暴力的に巻き込んでの凄絶な戦争行為を主導し、あるいは戦陣に立ったことでもたらされた結果を清算せずして、ひとり経済発展とその成果を謳歌することが、果たして文化的な人々に許されることであるのだろうか。
55年体制を支えてきた日本の政治指導者のうち、少なくない数で戦前、戦時中の戦争指導者がそのままスライドして(公職追放からの解除)潜り込んでいたことは知られるところだが、ここに示されるように実は戦後の日本の中枢部を支えてきた陣容というものは、戦前からそのまま連綿と続いていることは知っておきたいことだし、またそれを受容し、支持してきたのがボクたちであったことも事実なのだ。
つまり1945年8月15日を転機として、一体何が変わり、何を残してきたのか、その遺産は日本社会に澱となって沈み込み、事あるごとに顔をのぞかすことの本質に考えを及ぼすことも求められているのではないのだろうか。
この8月、「敗戦記念日」を挟んだ衆院選挙の熱い日々。恐らくは必ずしもこうした歴史認識、核問題などが争点になることはまずあまり無いだろう。
国政レベルの選挙とはいえ、こうしたマターは票に繋がらないらしい。
しかし問われていることは、55年体制が崩壊しつつある中、日本のこれからの行く末というものの有り様を問うものとなるかもしれないという認識は持っておいた方が良いだろう。
圧勝すると言われている民主党の候補者も、そうした歴史認識など語ってはくれないだろうし、中には自民党のリベラルな議員などと較べると、怖ろしく右翼的な政治信念を持つ有力者もいるほどで、ホントのところ、政権交代したとて、一体何がどうなるのか分からないことは少なくない。
しかし、そうした覚めた認識を持ちつつも、やはり腐ったリンゴ(現与党政治)は摘み取らねばならないことは確かなのだ。

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