工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

安保法制をめぐる、この熱い夏の光景(あの日から70年目の夏を迎えて その4)

『日本の歴史家を支持する声明』

先頃、米国の歴史家、日本研究家から声明が出され、大きな話題になったことは記憶に新しい。
『日本の歴史家を支持する声明』である。

これは安倍首相の米上下両院議会演説直後の5月5日に出され、既にこの時点では安倍首相による「70年談話」が検討されていただけに、大きな話題を呼び、私も目を懲らしたものだった。

米、英、豪、日の歴史家、日本研究家ら187名に及ぶ署名を集めたもので、ジョン・ダワー名誉教授(MIT)、アンドルー・ゴードン教授、同エズラ・ボーゲル名誉教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)、同入江昭・名誉教授(ハーバード大)らが名を連ねる、驚くほど網羅的で信頼のおける人々の声明になっていた。

このタイトルにあるように、日本の歴史家へのエールともなっていて、戦後70年間の日本と近隣諸国の平和を讃え、歴史解釈の問題で日本が「世界から祝福」を受ける障害となっていると指摘し、過去の過ちについて「偏見なき清算」を成果として残そうとするもので、とても格調高く、思想における左右を越えた説得性の高い表現で記述されている。
ぜひご一読願いたいと思う(Link

次いで、これを受ける形で日本の歴史学会16団体は【『慰安婦』問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体声明】を発するところへと繋がっていく(こちら

安倍晋三を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などによる歴史修正主義の現場への強権的介入で、中高の社会科、歴史から「慰安婦」が削られ「南京虐殺」が削られていく中、日本の歴史家は追い詰められ、口を閉ざすことになっていく人もいたかも知れない。
メディア、右翼、あるいは日本社会全体の空気が澱み、真実を追うことの空しさ、あるいは怖ろしさに胸を塞がるような思いに苛まれもしただろう。

そんな中、米国の歴史研究家、日本研究家らからの危機意識に駆られたエールは海を越え、日本の歴史家を奮い立たせ、真実を真実として訴えるべく起ち上がった。

たぶん、違憲安保法制をめぐる様々な学会からの決起という、かつて無かった新たな事態もまた、先んずるこうした歴史家の連携に勇気を与えられ、起ち上がっていく契機になったものと思う。

先に述べたように、近年、ドイツへの世界的な信頼は、ナチスヒトラーと完全なる決別をし、周辺諸国への賠償と謝罪を行い、国内においてはその再現には徹底して法的対処を含めた処置をし、東西ドイツの統合にあたっての周辺諸国の大国化懸念にも配慮しつつ、現在の名誉ある地位を獲得してきたと言えるわけだが、我らが日本とは大きな違いをそこに認めざるえを得ないものがある。

確かにドイツの「謝罪」も必ずしも倫理的な側面だけでは無く、たぶん狡猾なる外交戦略としての「謝罪」の側面もあったはず。
しかしそのことで、内外の軋轢から解放され、もともとあった産業基盤、知的資源を存分に発揮する環境を得ることで、信頼醸成を進めると共にEUから世界へと拡がる、経済的拡張へと繋がったという側面も大きかったろう。

あるいは文化的側面ではEU全域におけるキリスト教文化という基底において繋がる価値観の共有があったればこその「信頼醸成」に繋がったと言えなくは無い。

日本はそうしたところでも、残念ながら北東アジアでの価値観の共有は難しい面がある(儒教的精神の共通は認められるのかも知れないが、近代化過程でそれらは消失しつつあるだろう)。

しかし古来より文化、人的資源、産業の交易は盛んだったわけで、捻れてしまったのは、日本の近代化以降のこと。現在に至る150年の歴史がそうさせてしまった

そうした視点からすれば、今、問われているのは日本の近代化150年の歴史総体なのかも知れない。

先の世界産業遺産における韓国からの指弾も、そうした近代史を顧みる機会として捉えるべきで、過度に感情的な吹き上がりで敵対するほど愚かなことはない。

また「慰安婦」問題についての理解が進まないのは、「女性の権利と尊厳」が掛かる、すぐれて現在的な問題として捉えることが求められているというのが、研究者の訴えであり、そうした視点を欠如したところで、いかに語ろうとも、慰安婦には届かないだろうし、わが身のこととして考えている多くの女性へも届くわけも無い。

現在的な女性差別の視点から向き合わねばいけないということになる。
(あの時代では売買春は当たり前のこと・・・、とする認識では、今を生きるかつての慰安婦にも届かない、ということ)

戦後70年、多くの時間を費やし、はじめて問われる問題もあるだろうし、死を前にして、やっと語り出す当事者もいる。
しかし、ここを逃せば、10年後、20年後にはこれらを身をもって証言できるほとんどの人は鬼籍へと入って行く。
恐らくはぎりぎり、最期の機会になるものと思われる。

「謝罪」は安易では無いし、せずに済むのであれば避けたいと思うのが人間の性(サガ)。
しかし「謝罪」に踏み出すことで、手と手を重ね、未来を切り拓く一歩として確実に繋がっていくはず。
それができないのは、狭隘で小っちゃく、独善的な思考しかできないからだろう。
他者を信頼する勇気を持たないために、いつまでも小さな世界で悶々として閉じてしまう。

最近、「慰安婦問題」などを追っていると気づかされるのだが、とみに気掛かりなのは、知性への逆襲というのか、リベラル言論、歴史学などへの悪罵が平気になされるところがあり、日本もここまで劣化しているのかと、頭をかかえこんでしまうこと屡々。

これには当事者も責任があるだろう。学会という狭い世界に閉じこもることで、市民との共有の場を持とうとしない。
もちろん、自民党のセンセイ方の劣化も目に余るとは言え、しかしこれが日本社会の縮図でもある。
市民の側も知的資源に容易にアクセスし、歴史に学び、歴史家、知的作業者にもこれに応えるという相互の活動が望まれる。

インターネットというツールを使いこなせる今の時代、スキルを獲得し、意欲さえあれば、かなりのことが可能となるはずだ。

地域の「九条の会」などにアクセスしようにも、Webサイト1つ設置されていないという現状、例え設置されていたとしても、まったく更新されず、チープで意気消沈させるという実態。
若者に引き継ぐためにも、仲間内だけで楽しんでいるだけでは無く外へと効果的に発信していく努力を求めたい。

日本は今、少子高齢化の時代を迎え、産業的には重厚長大の時代からITへの転換時代に移行しつつある中、GDPにおいては隣国中国に追い抜かれ、困難な時代を迎えているのは間違いないらしい。

近未来を展望するならば、楽観的な視点からは隣国中国の膨大な消費地を控え、あるいは国内産業における高品質なブランド力、あるいは世界的に評価が上がる一方の日本食があるなど、いくつものポテンシャルを持っていると言われる。

このような基礎的資源を有しながら、隣国との軋轢ばかりを増大させるような政権に日本という国を預けるのはあまりにも悔しい。
現政権には一刻も早く退場してもらい、仕切り直しをするならば、北東アジアでの誇りある立場を獲得し、若者も未来への希望を語れる日がきっとやってくると、私は楽観視している。

柳宗悦の民芸論と啄木

個人的なことになるけれど、無謀にも私が家具制作の世界に入ったのにはいくつかのきっかけがあったわけだが、まず修行のスタートに松本民芸を目指したのには、その一つに柳宗悦の民芸論があったことは言うまでも無い。
私は仏教的アプローチでの民芸論は、世代的にも解釈は困難な者のひとりだが、柳の「無名の作り手による雑器に見る美」という視点には圧倒され、魅入られたことだけは確かだった。

それはまた朝鮮の陶磁器への深い愛情を通した朝鮮民俗への信義につながり、そうして韓国併合後、「三、一独立運動」への過酷な弾圧下、『読売新聞』に「朝鮮人を想ふ」として5回にわたるエッセーを寄せ、日本の対朝鮮政策への徹底批判を展開するという、実にあっぱれな言論人であったことを知り、排外主義から自由な立場から、朝鮮人へと接近していた柳に一層傾倒したものだった。

柳宗悦亡き現在では、モノ作りで民芸を語る人はあまたいるけれど、残念ながら柳のこうした自他共への厳しい論陣を張ろうとする人はいまい。(本Blogの関連記事:『今あらためて「柳宗悦」の言説を』

*『民芸四十年』(柳宗悦)(青空文庫

また、ほぼ同時期(韓国併合の1910年)、啄木は次のように詠んだ。

地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨をぬりつつ 秋風を聴く

反骨の俳人、啄木ならではの朝鮮への哀惜を滲ませる歌である。

結語:違憲安保法制は必ずや廃案に

世界における時代は、ここにきて大きく変貌、転換しつつある。

現代世界において「慰安婦」はもとより、植民地支配も許されなくなっているし、あらゆる差別も許されない、寛容の社会へと急速な展開で向かっていることは誰の目にも明か。

「違憲安保法制」の議論が安倍政権の思うような経緯を辿っていないのは確かだが、これも安易に戦争ができる国では無くなってきているという現実を突きつけられているからだろう。

例え、政権運営のミスで中国と一線交えることがあったとしても、この政権はただちに倒れてしまうだろう。
それほどに戦後70年にわたる日本社会の平和への希求は強いものがあると思っている。

昨日の川内原発再稼働においても、政権と電力ムラの無理筋であり、世論の大半はこれに反対している。
福島第一原子力発電所過酷事故の原因も十分に解明できず、未だに事故からの復旧もめどが立たず、放射線に汚染された地下水はダダ漏れし、

一方、この過酷な暑さにもかかわらず、電気が足りないなどという話は一向に聞こえてこない。
日本の産業界、民生部門での省エネが大きく進んだこと、あるいは電力会社の既存発電力の有効活用などで、ピーク電力を上回る余力を獲得してきているからだ。

しかるに、新たな規制水準にパスしたからと言って、安全神話を復活させ、再稼働に突き進むというのは、あまりにも政治的に過ぎ、経産省の独走、原発ムラの威光復活のためにするものとして、とても許せるものでは無い。
国は事故の責任は事業者が考えると言い放ち、他方事業者(九州電力)は国が何とかしてくれるはずとする。

福島第一原子力発電所過酷事故で見せつけられた、無責任体制は何も変わっていない。

これら全ての困難の多くは、現在の国会議席の異常さが産み出しているとも言える。
日本がおかしいのではなく、議会のセンセイ方の構成が異常なのだ。
民主主義というものが、まるで機能していない。

これを正せば、かなりの多くのことは解決に向かうだろう。
私たち日本人の信頼、誇りを取り戻し、歴史に誠実であるために、この困難な8月を乗り越えていきたいと思っている。

違憲安保法制は必ずや廃案にできる

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