工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「政治家を演じる」(平田オリザ)を読んで

平田オリザ
数日前の早朝、新聞紙面ににやつきながら何度かポンッと膝を打ちたくなるような段落が現れ、朝の気分を良くしてくれる記事が来ていた。
劇作家・演出家、平田オリザさんの寄稿「政治家を演じる」である。(朝日新聞09/04/29、オピニオン欄)
次のようにサブタイトルされている。
〈試される「演技力」議員の仮面つけ 役割楽しめばいい〉
〈地方のボス追放 生活者の輪番で ましな民主主義を〉
(このサブタイトルは寄稿者本人によるものか、編集者によるものかは不明)
かつて木鐸などと言われた信頼性において墜ちたメディアとはいえ、恐らくはまだまだ大きな影響力を有する朝日のオピニオン欄での人気の演劇人の寄稿ともなれば、既にBlogなどネット上でも様々に取り上げらているものと思われるので、ここでは極私的な感想めいたものを少し残しておきたいと思う。
なぜボクが彼の論考に刮目させられたかとひと言で言うならば、世上、共有概念(既成概念)として定着しているかのような事柄の多くが実は事の本質を捉えていない。
何となく‥‥(どこかの首相が良く用いる冠詞のようでいやだな)曖昧なままにイメージとして定着しちゃっているために、隘路から抜け出せず、問題解決へと踏み出せないことが多いのではないか。
彼の論考にはその辺りを突き破って晴れやかな5月の空のようにすっきりと見せてくれる語り口の鮮やかさ、論理性と、確かな視座、そして何よりも演劇人としての歴史観、洞察力を見ることができる。
彼が冒頭で取り上げるのが「劇場型政治」、例の「小泉劇場」とか良く使われる言葉に対してのものだが、
〈‥ 劇場は、人生をふり返り、世界に思いをはせる場所だ。思考停止の阿呆を増産する機関ではない。〉いきなりの平手打ち、という感じで爽快。


続いて、不登校の子供達の「いい子を演じるのに疲れた」へは、
〈そんな時だけ『演じる』という言葉を使うな〉と軽くたしなめる。
〈「演じなくていいよ。本当の自分を見つけなさい」と語るのは、大人の欺瞞にすぎない〉
〈「いい子を演じるのに疲れない」タフなこどもたちを育てなければならない。できることなら「いい子を演じるのを楽しむ」子どもを育てたい〉という
そうした前振りを置いてから、編集者からの依頼であったのだろう、政治、および社会についての現状を独自の視点で解析し、そしてそれらが抱える問題点への処方箋を提示している。
まず刮目させられた1つは、「派遣村」に象徴される労働現場の新たな事態への独自の視点だ。
産業構造が大きな転換点に来ているにもかかわらず、労働力の供給側がこれに適応していないことが問題なのだという。
その核心は「コミュニケーション能力の問題」。
製造業に従事していれば、ただラインで黙々と与えられた仕事をこなせば良かったが、第3次産業では柔軟性、コミュニケーション能力が不可欠。
そして〈派遣村の問題は、根本的にはコミュニケーション教育を放棄してきた教育行政の失政であり、その失政のつけを、個々人が払わされる由縁はない〉
〈いまからでも人生の路線変更が可能な若年層には、小手先の職業訓練ではなく、コミュニケーション教育を徹底して行う必要があるだろう〉
〈新しい職種や環境ごとに自分を演じわける、そんな能力を身につけさせる必要がある。〉ここでも「演じる力」が求められている
そもそも論の話しになるが、国際的にも高い教育レベルにあると言われる日本での教育の核心というものが知識偏重主義で、一方個というものの追求であるとか、世界観の探求といった人間性の確立へ向けての必要なリソース提供を等閑視したままで社会に放り出す現状は、現在のような混沌とした政治経済の状況下では、それらに振り回され自己というものを見失ってしまいがち。
そうした日本固有の問題に「コミュニケーション能力の問題」というものが核心の1つとして横たわっていることは確かなことだろう。
そして、こうした寒々とした社会経済情勢への道を用意してきた政治にも鋭く切り込む。
〈小泉元首相は。就任当時しきりと、「構造改革には痛みが伴う」という言葉を口にした。国民の多くは、その雄弁に納得し、改革路線を支持してきた。だが、その「痛み」の本質を人々は理解していたか、あるいは小泉氏本人も、理解していたのだろうか〉
〈小泉政権の5年間で、たしかに構造改革は進んだのかも知れない。しかし、本当に国民が分かつべき脱工業社会への「精神の構造改革」は進まず、いまになって、その痛みの部分だけが無意識のうちに一部の人々に押しつけられている〉
そして選挙の洗礼を受けることもなく3人もの宰相が立ち替わり登場しては消え去っていくという、日本固有の政治風土。
漢字もまともに読めず、酩酊状態での記者会見で赤っ恥。彼ら二世政治家は「政治家」を演じるのではなく、継ぐべき身分と考えたが為の失態であり、
多くのことを期待しているのではなく、〈せめて政治家の役割を演じてくれという当たり前の願い〉だとする。
このあたりの論法は確かに演劇人ならではの視座とも思えるが、しかし決して的を外した物言いでもなく、むしろ正鵠を射た指摘だと思う。
確かにボクにしたって、真っ当な木工職人というものを演じているのかも知れないと思う。
実はその背後には、木工とは遠く隔たる何ものかがあるかもしれないし、あるいは正統な木工というのではなく、ある種はちゃめちゃな、破壊的なモノヅクリをしたいと考えているのかも知れないじゃないか。
しかしそこは封印して、真っ当な木工職人を演じることで、社会的評価を得、顧客に喜んでもらうということを通して、やっと何とかこの社会に存在しているというわけだ。
少し脱線してしまったわい。
そうして最後、以下のような結語へと繋ぐ
〈やはり、国会が、政府が、東京がすべてを決めるいまのシステムでは、改革は難しいのかも知れない。大胆に地方分権をし、市議会や知事レベルは、2期、3期程度で任期の制限を設けて、いまの小ボスの集まりのような地方議会と、その積み上げの上での国会という構図事態を変えるべきなのだろう。
任期の制限とともに、議会は夕方からの開催にして、普通の生活者が、マンションの管理組合の役員のように輪番で議員になれるシステムをつくる。
こうして、政治家という役割を交代できちんと演じ合う習慣を、時間をかけてつくっていく以外、日本によりましな民主主義が育つ可能性は少ないように思う
‥‥民主主義に王道はない。〉

今日のこの一人の演劇人の論考の引用の結語、最大のポイントがここにあると思う。
地方政治の場からの小ボスの追放と、輪番制での議員選択システムである。
恐らくはほとんどの人が何を寝ぼけたことを !?と訝しがるかも知れない。
しかしボクは以前より、彼のこの結語と同じことを夢想していた。
いわば我が意を得たり、という気分でもある。
ここで詳しく論ずるつもりはないが、じゃんけんぽん、での選挙ということも良いかも知れないとさえ思っている。
未成熟な民主主義においては単なる夢想でしかないこうした究極の代議制をあえて唱えることの勇気と、思想哲学の高みというもがボクには見えるのである。
確かに今回の論考では紙面の制約からして、彼の真意の程を十分に明かしてくれているものではないと思うので、機会があればぜひより深いところまで解き明かしてもらいたいと思う。
(既に彼の刊行書などにあるのかもしれないな。参照すべきものがあるようであればご教示いただきたい)
平田オリザ、やはり彼はただものではない。まずは何よりも彼の舞台に足を運ぶことから始めようか。
(興味のある方は、ぜひ図書館などで新聞紙面を手にとって読んでいただきたい。
凡庸な政治・社会評論家の論考などより、よほど論旨明快で説得性がある)

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