工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「私語り」について(斎藤美奈子氏 時評から)

苔
先にBlog記述に関わり「含羞」という言葉から考えて見た(こちら)ことがあったが、あらためてBlog記述について考えさせられる新聞記事があった。
朝日新聞〈文芸時評〉斎藤美奈子氏の《「私」を語る方法》という02/23付の評論。
後半に出てくる石原慎太郎「再生」(文学界)へのコテンパ批評は痛快であり、それ1つとってもお勧めであるので機会があれば目を通すのも一興かと。
朝日新聞〈文芸時評〉は一昨年までは加藤典洋による連載だったがこの斎藤氏に代わったときは、少なからず違和感があった。
文芸評論家とはいえ恥ずかしながらほとんど読んだこともない人だったということもあるが、それまでの加藤氏とは評論の視座が異なるのは当然としても、文体に馴染めなかったことが大きかったのかもしれない。
簡単に言えば今風のポップな文体であり、そのことによる読みやすさもこの人の戦略なのかと思った。 毎回目を通す内にその文体にも慣れ親しんでくるからおかしなものだ。
フェミ系、サブカルの方に関心領域があるようだが、それもまた彼女の戦略なのかもしれない。
ともかくも多く読んでもらわねばはじまらないからね。

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さて、今回の時評、〔「私」を語る方法 〕とタイトルされたものだが、なぜこれをここで取り上げるかと言えば、Blogという表現方法にも深く関わるものと感じられたから。


いわゆる「私小説」と言われる日本固有の記述対象などの小説手法は純文学としてジャンル分けされてきたわけだが、既にそうしたものは死に絶えてしまったと言われて久しい。
ネット上に増殖しまくっているBlogもいわば日記風のものが主軸であるが、斎藤氏は「私語りの文章が読める(読むに値する)かどうかはまた別である」とし、文芸誌に企画掲載された人気作家の日記に対し「日本には(世界にも)さまざまなニュースがあったはずなのに、52人の日記からそれを推し量るのは無理だという事実である。個人の生活は世界の中の出来事とは無関係に流れていくものらしい。少なくとも日記のレベルではね」と皮肉る。
日本の近代小説の名作と言われるものの少なくないものにそうしたものがあるのはその通りだ。(時局に関係なく淡々とした日常の心理描写が基本。キナ臭い時代になるとそうした小説家の多くが時局におもねる立場に立つというのが、日本の文学界の特徴でもあったわけだが)
続いて数人の「私小説系」と言われる作家の作品を取り上げ俎上に置かれるわけだが、「私」語りという手法も社会と時代に繋がることでその可能性を開くといった視点が置かれている。(「おかずの肉と社会がそこではひとつの回路でつながるのだ」)
そして最後に東大先端研教授・バリアフリー研究者、福島智氏(視覚障害者)の学位論文を「脚色引用」して書かれた石原慎太郎氏の「私小説」風「創作」を鋭く批評する。
「他者を主観的に語るのは、自分を客観的に語るのと同じくらいむつかしい。小説家にはその両方が求められる。日記ブログとの違いはそこ。片手間ではとてもできない仕事である」と結語されている。
今回の時評は「私小説」というものの可能性を「日記と違う創作の深み」に求めていると読んだわけだが、最後の石原慎太郎の作品への小気味良い鋭い批評が目についてしまう(苦笑)。

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それはともかくも、Blog記述は多くの場合日常生活を取り上げつつ自己表白をするというものが多く、またこれを覗き見する読者も少なくないということでここ数年大きくはやっているのだろうね。
このBlogの場合、木工職人としての日々の業務上の活動から、それに纏わることがら、例えばアート、デザイン、さらにはMacやら音楽やら世相やら、などと様々な周辺雑記のようなものまで書き連ねているわけだが、中にはただの日記風の記述もあったりするだろう。
Blogを設置してこの3月で早くも6年目に入り、エントリー数も1065を数えるまでになったのだが、本Blog右メニューの「CATEGORIES」にもあるように、このBlogはいくつかの連載記事というスタイルでの体系的な論考を含むものとなっている。
これは類種のBlogの中ではかなり異色の部類になっているのかもしれない。
類種のものの多くが単発的でテクニカル的な記述を主要な対象としているのに比しても特異であるかも知れない。
以前も触れてきたところだが、テクニカル的な記述をあまり積極的にしたくないという理由はいくつかあるのだが、あまり訳知りに、知ったかぶりになりがちな記述は避けたい、むしろねらいとするところは、木工というものづくりの世界を一歩引いたところから照射し、より客観性を持たせた記述を心がける、格好良く言えば普遍性を持つようなものにしたいという願望があるから。
そうした意志があればこそ、寝る間を惜しんで延々とした連載ものなどを書き連ねていくエネルギーをはき出すことができる。
あんなものを読むのは、読者の1割もいれば良い方だろうね。
ボクはそれで十分ありがたいと思っている。
10人のうち、一人でも深く繋がることができればそれ以上何を求めよう。
話を戻せば、ただの日記風のものに留めず「読むに値する」もの(を含む)にしたいという意志、そして木工について、あるいは木工家具について、少しでも深く掘り下げることで「読むに値する」記述ができるなら申し分ないだろうね。
そうした意思に基づくために、直接的な業務以外の関心領域の記述に力点が置かれる場合も少なくないということもある。
これにはお叱りを受けたりするわけだが、しかし決して安易に書き殴るという手法を取っている積もりではなく、ここにも真摯に木工へと向かう一人の木工職人としての生き様の偽らざる一面が晒されているとお考え頂ければありがたい。
いわば斎藤美奈子氏が語るところの、世界とどう繋がった「日記」であるのか、ということへのボクなりの答えであるのだから。
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ところで今朝の朝日新聞の「声」欄(読者投稿欄)にオリンピックに関する2本の投稿があった。
ボクはこの2つともに深く肯かされた。
・日本勢巡る石原発言に怒り(関連記事:毎日jp
・「感動を与えたい」に違和感
というものだが、斎藤美奈子氏の文芸時評での批判対象者がここでも俎上にされ、その心性の貧相さ故の競技選手への冒涜、そして五輪憲章への無知を晒す事への深い嘆きが綴られている。
2つめは最近やたらと「皆さんに感動を与えたい」と語ることへの違和感を説得性のある分析で説いたもの。
いずれもボクよりも年配の方々による投稿だが、こうした批評が一覧性のある新聞紙面で読めるのはありがたく、政治社会面が年々その質の低下が叫ばれている中にあって、数少ない堡塁の1つであるのかもしれないと思ったものだ。

Top画像は本件記事とは関係ありません。
新潟県北魚沼の「目黒邸」資料館に向かう路傍、09/10

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  • 6年目にはいったのですか、おめでとうございます。
    これからも辛口ブログ楽しみにしています。
    >感動をあたえたい、って
    何かおこがましい印象を受けますねぇ。

  • kokoniさんはバンクーバー五輪、楽しめましたか?
    「感動を与えたい」と競技する人には、私たちは「ドウカヨロシクオネガイシマス ≦(._.)≧ 」
    ってな具合になっちゃいますから、何かヘンでしょ。
    スポーツというものはあくまでも競技者個人に帰属するものであってはじめて本来の力だ出せるものでは?。
    それに立ち会うギャラリーは、その肉体の奔放なほとばしりと、技、そして美しさに共鳴し、感動するわけですよね。
    どうも日本における最近の傾向、同調圧力といった問題やら、スポーツ選手をはじめ著名人は“世間”に媚びなければダメ、といった強制があるようで、気味が悪いったらありゃしません。
    君自身のためにがんばってくれればそれでよいのだよ。

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