工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工芸の背景に潜むもの

美術、あるいは音楽でも良いが、芸術を鑑賞するということは、その作品の背景にある作家性というものが見えてくることは多い。直裁にその作家性を解読することができるものから、一枚一枚と着飾った装飾を剥ぎ取らねばたどり着けないものまでと様々ではあるが、習作であったり贋作作家などは別としても、素直に作品に向かうのであれば、否応なくその作家性というものが作品とともにそこに立ち現れるものだろう。
ただ工芸というジャンルは少し様相が異なる。
工芸とは、様々な素材を通した表現行為であり、作家性というものも、素材の力を借りて初めて訴えることができるという制約、あるいは特性というものがあることは否定できない。
しかしそうした特性、あるいは制約の下にあっても、なおその制作者が何ものなのかということが立ち現れることは経験するところだ。
つまり素材というものをどのように理解し、これを培ってきた技法で編集し(調理し)、どのように造形させるかということは、やはり優れてその制作者の美意識、あるいは教養というものが対象化されるものだと言うことにおいては、大きくファインアートと異なるというものではないように思う。
こうした工芸の特質というものは、むしろ美的表現における1つの可能性として見ることさえできるのではないか。


木工芸においてもボクが個人的に優れた作家と信頼を託すS氏の作品にも、M氏の作品にもその人の作家性というものが見事に体現されていることに気付くのは容易だ。
落款、クレジットなどなくとも言い当てることができるだろう。
これは決して狭い意味での作風を言い表しているのではなく、やはりその作家性、あるいはその人のある種の全てが見えてくるというものに近い。
熟練を重ねた技法の積み上げで、揺るぎない構造というものが、磨き上げられた美意識と人間性に支えられ、洗練されたものとしての造形美としてそこにあるのだ。
何も高名な作家でなくとも同じ事が言えるものだ。
未熟な木工家のものであれば、その未熟さというものが見えてくるだろうし、技法において熟練した作家のものにも、その作家性というものが見事に立ち現れてくるものだ。
これはその作品の優劣に関わらず、である。
もちろん、表現としての未熟さにおいて十分に作家性というものが表れていないものもあるだろうし、その見え方も様々だが、いずれにしろ自己を偽れないというのがものづくりの怖さであり、同時におもしろさである。
ちょっと話しを変えよう。
ボクは芸術至上主義の立場に立ちたいとは思わないが、しかしとても好きになれない人物の作品の前に立って、悔しいけれどその魅力に打ちのめされることだって当然ある。
思い至るのは、自分の知らない領域にすばらしい能力と美の世界があることにそれまで気づかなかったことの不明の恥である。
あるいは社会的に悪者呼ばわりされたり、卑しい人と指弾されるような人に良い作品が作れないなどと言うことは、絶対に無い。全く次元の異なる評価だからだ。
あるいは逆に人格的に優れた人が良いものを作るなどということも言えるはずもない。
いわば人間存在というものの不可思議さであり、世界の豊穣さである。
ことほど左様に芸術においても、また少しニュアンスが異なるとはいえ工芸であっても、その作品に体現された魅力というものは作者を語って止まないものであるようだ。
恥ずかしながら美学においても、デザインにおいても基礎的素養を身につける高等教育の機会に恵まれなかったボクは、多くの領域で学習が足りなかったことを深く自覚している。
あまりに不十分な素養というものが木工における活動を阻害していることもあるだろう。
したがってそうしたことも含め、自身の作品には恥部をも見せているかも知れない。例えそれを逃れようと糊塗しようとすれば、なおのこと醜いものに堕するだけだろう。
しかしサラブレッドでの生育を遂げられなかったことを悔いてもあまり意味のあることではない。
必要なことは自身の仕事を冷静に見据え、美と工芸、そして教養全般において世界の成果を可能な限りにおいて追体験し、自身を鍛えることだろう。
無論ここで言う教養とは決して狭い範疇でのことではなく、知的活動全般を指すものと考えたい。
先に、短歌などと、およそ木工とは遠い距離にある文芸を俎上にしたことも、そうした線上にある。
こんな木工Blogに文芸を俎上にすることなど全くのお門違いと鼻白む人も多いことは理解せねばならないが、しかし迂遠のようであるけれど、作ろうとする木工家具の造形を少しは豊にもしてくれるだろうことも信じたい。
本Blogプロフィールに書き留めた「人生の全てが関心領域」というちょっと大風呂敷な宣明も、実はこのようなことを意味する。
確かに生業として考えたとき、木工という業種は大変であることに違いはない。
しかしなお、賭ける意味があるとするならば、今日ここで書き散らしたような意味が含まれることで、一歩前に向かって歩み出すことができるのではないか。

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  • 一番下の方にあったProfileに今まで気が付きませんでした。
    開高健氏の「悠々として急げ」という言葉は、その深い
    意味は良く分かりませんが言葉の響きが何となく
    好きです。

  • 出典はどこからなのか知りませんが、開高健が好んで使ったフレーズのようですね。
    開高健は晩年はもっぱら釣り紀行ばかりでしたが、やはりベトナム戦記に残されたすさまじい体験がバックボーンにあるからこその、抜けた爽快で洒脱な随筆家でした。
    短い人生を、しかし悠然といきたいものです。

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