工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工という営みを支えるもの(クレノフの教え)

思えば『A Cabinetmaker’s Notebook』 という書物に出会ったのは1986年の春だった。
自身で求めたものではなく、その4月から世話になりはじめたばかりの松本の職業訓練校の教官から貸し与えられたものである。
その経緯は今ではもう思い出せないが、既に刊行されていた4冊をまるごと渡されたことだけは今でも覚えている。
ボクは必ずしもこの教官にとって良い生徒ではなかったはずだが、生年も近かったこととか、全くの素人として門を叩いたわけではなく、数年前から木工に触れていたことでのコミュニケーションの取りやすさといった、他愛ない関係からのものであったに違いないが、しかしその時はその後のボクの木工人生に深い影を投げかけるほどの書であることに、さほどの自覚を持って受け取ったわけではなかったと思う。
ただしかし、その本から受ける示唆、インスピレーションというものは、英語を解せない者であっても、重要な文献であることを感じ取り、その教官の許しを受けないまま、主要部分を複製させていただくことにし、それを遠くにいる妻に翻訳してもらうというやや無謀な企みを図ったものだった。
krenov_school1そして、それから2年後、何とこの著者がその手で木に小刀を入れ、またキャビネットメイキングの何たるかを語る場に席を置くことができるチャンスを得たのは、工房を構えたばかりの頃のことだった。
高山の飛騨国際工芸学園の開校初年度の記念イベントとして、この著者J・クレノフ氏が招聘されたのだった。


このサマースクールの話しがどこから入ってきたのか、今では思い出せないが、恐らくは東光堂あたりからだったのだろう。
工房起ちあげの忙しい時期であり、エントリーには少し悩んだのは事実だったが、当時静岡にアトリエを構えていたカール・マルムステン出身のMさんのアドバイスはボクの逡巡を粉々に砕くもので、全ての日程をそれへと向けたのだった。
このわずかに10日間あまりのキャビネットメイキングのサマースクールで、ボクは自由制作の対象として、クレノビアンスタイルとも言うべき1つのキャビネットを制作したのだったが、今でもこの時に受けたクレノフ氏からの言葉は断片的ではあるものの、鮮やかに蘇る。
krenov4彼がカリフォルニアから持ち込んだ道具の数々、ダボを穿つための即席に作られたハンドドリル応用の治具。
そして何よりも木に小刀を入れる時のクレノフ氏の手のフィーリング。
ボクが微妙なテリ脚を反り台鉋でシェイプする脇から、「君は良いウッドワーカーだが、ここはちょっと違うよ、そうではなく、これを使ってみてみたまえ‥‥」と平鉋でやってのける技量等々、いくつものことを思い起こすことができる。
参加した“生徒”は全国から20名ほどであったと記憶しているが、恐らくはその1/3ほどは現役で木工に関わっていらっしゃるはずだ。
今ではその中の数名との交流があるぐらいだが、それぞれに良い仕事に携わる尊敬する人たちだ。
連日真夏の日射しが射し込む教室でクレノフ氏からのレクチャーを受けつつ、木取りから加工に専心し、時にクレノフ氏からのアドバイス、注意を受け、実践する。その繰り返しの至福とも形容すべき日々だった。
krenov_school3一方ではまだ開校して間もないためか、木工機械の設定にいろいろと問題があるためにこれを直したり、丸鋸昇降盤の刃口板を削ったりと、アシスタントのようなことにも精を出した。
あるいは傾斜盤で框の部材を立てて枘を抜いていたときには、そんな危ないことをしてはいけない、これを使いなさいと、彼自身が制作した治具を指さしたのだったが、しかしボクたち日本の職人にとってはそれらの治具はかえってアブナイもので、その対応に苦慮した、などということも懐かしく思い出され、彼我の加工手法の違い、安全への意識の差異なども偲ばれる。
宿泊施設に戻っての夜ともなれば“生徒”はビール片手に(?)1室に集まり、様々なことを熱く議論し、クレノフ教室の一員であることの喜びを分かち合ったものだった。
そしてこの幸福の日々はあっというまに過ぎ去り、その後、この時の日々を糧として、様々な木工の仕事に携わり、様々な木工家具を世に問うてきた。
この時のJ・クレノフ氏の指導がボクの木工人生にどれだけ生きているのかということは分からない。
無論制作する家具のフォルム、あるいはディテールに彼が作るキャビネットとの相似性を探し出すことは可能だろうが、そんなものは表面的な模倣であるに過ぎない。
そうではなく、その裏に隠されているスピリッツが醸し出す、木という天然素材とどのように対話して、十分に吟味された木取りがなされ、その木が訴える言葉に導かれながらシェイプされたものなのかを検証されねば本当のところは分からない。
それほどまでに高い精神性と、それが必然的にもたらす卑俗的な現実との葛藤を越えた世界での営みであるのかを問うものであれば、ただただ頭を垂れて立ち竦むというのが実態であろう。
実はこの翻訳本を読み進めていくうちに、クレノフ氏自身の強い葛藤を知ることができたのは驚きでもあり、また安堵でもあった。
1つのキャビネットを完成させるまでの膨大な時間の蓄積は、必ずしもそれに見合うだけの対価を得られるというものではなく、結果その対価で求めることのできる材木のストックは限られたものでしか無く、仕事の幅を狭くする。果たしてこのような環境で、この仕事が続けられるのか、そうした生活者としての葛藤まで正直すぎるほどに明かしている。
これはよく見られる自分の作品の売り込みに誇張やはったりで名を上げる人たちとは対極的な誠実な木工家としての葛藤だろう。
あるいは客の一人が工房を訪ねてきて、数少ないものでしかないのに設置してある機械設備を見て驚かれてしまうことに対して、強い反感を覚えてしまうあたりにも共感を覚えるというふうに、とてもシンパシーを感じてしまう。
訳注には〈機械のありがたさを知っている家具職は、口が裂けても「手作り」などとは言わない〉とあるが、このBlogでも折に触れて語ってきたことと全く同じ考えで微笑んでしまったものだ。
そして次のように語ることで、ボクたちが時に襲われる不安と動揺を諫めてくれるのだ。

時には配管工のようには金を稼げないこともあるが、作り手は自分の制作で活かされているのである。そして作り手を制作に向かわせる一つの重要な点は、制作を楽しむこなのである。
─── 趣味として楽しむのでも、間歇的に時々楽しむのでもなく、制作とともに在ることを楽しむのである

一人のほんとうに優れた工芸家が、おびただしい数の一般の人々のためにあるなどと思ったことは一度もない。‥‥‥
百人、二百人の人が毎年ドアをたたき、ものを欲しがるなどということはまったくもって必要がない。最終的にはこの工芸家は、彼一人で制作し、何かとても私的(パーソナル)なものしか人々に与えられないからである。たくさんの作品ではなく、とても私的なものなのである。‥‥

これらの引用は多くの語りの中の1つの段落でしかないが、ボクたちにはこうした珠玉の言葉に、繁忙極める日々の仕事の中で見失いつつある営みの本質というものにはっと気付かされてしまうのだ。
また冗長に過ぎるとのお叱りを受けそうなので、ここらが潮時かと思うが、我々の世代におけるクレノフ感と、若い世代のそれとでは、どうもかなりの受容の差異があるようだね。隔絶していると言えるかも知れない。
その名前すら知らない木工家が多いという。
時代相が違う、価値観が違ってきている、何もかも変わってきている?
ボクの認識では米国はじめ多くのところでJ・クレノフの仕事のスタイル、家具のスタイルが圧倒的とも言える好感を持って受け入れられたという背景には、やはり時代の相というものが否定しがたくあるのだろうと思えてならない。
つまり60〜70年代を席巻した激動する世界の中から澎湃と沸き起こった「カウンターカルチャー」という息吹に洗われなければ、彼の真髄というものに到達することなどできないということなのだろうか。
わずかに数十年で、木工藝への取り組み方の評価、作品評価の基準点が大きくずれてきているということなのであろうか。
それとも‥‥。
(しかし原著刊行から32年経て、ここに三ツ橋修平氏が翻訳本を世に問うたということの意味をあらためてボクたちは問い返すべきなのかもしれない)
*画像はキャビネットメイキング・クレノフスクール(1988in高山)でのスナップ

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