工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

一青窈とその一族(アジアという1つのアポリアを越えて)

BESTYO2つほど日本の歌手について書いてみたいと思っているが、まず今日は「一青窈」からいこうと思う。
彼女を取り上げるのは、ちょうど今、朝日新聞の夕刊紙第2面で5段抜きという大部でのコラムが連載されているからでもある。1週間5本に及ぶものだった。
取り上げられたいくつものエピソードの多くはファンであれば既知のことでもあったが、かなり掘り下げた「調査報道」のように、「一青窈」という2つのルーツを持つ歌姫のバックボーンと、その中軸を占める台湾の近代史(もちろん日本との関係におけるそれ)を紐解くような重層的な読み物ととなっていて、期待を裏切ることなく楽しむことができた。
わけてもアジアの映画監督の中でも5本の指に入る名匠と考えている、あの「悲情城市」のメガフォンを取った「侯孝賢」への取材を元に構成された金曜日4回目は、「一青窈」と「悲情城市」を結びつける彼女の一族の物語が背景にあったことを教えられるもので、ボクとしてもちょっと衝撃的な内容が散りばめられていた。(ここでは詳述しない。Wikiあたりにも彼女の一族の話がでてくるので、とりあえずはそちらで)
それらは彼女の唄(もちろん自作の詞も含めて)が持つ独特の力というもののルーツをあらためて考えさせてくれるようでもあり、また映画の初出演にして主演を果たしたのも、この「侯孝賢」による「珈琲時光」(2003年の映画で、彼の小津安二郎「東京物語」へのオマージュ)であったことの謎解きができるものでもあった。
「彼女は私が知っている日本人とは異なる独特の個性がある。個性の源が何か分からないが、日本人の伝統的な社会にはないタイプで、とても特殊で特別な人だ」(侯孝賢)と、役者未経験の彼女を主役に抜擢。
一青窈は演技というほどのものでもなく、ただ神田神保町、田舎の群馬、そして台湾を舞台として、それぞれの日常を、小津のように淡々と描かれる中に自然体で現代日本の一人の若い女性を「演じて」いた。
記事中では触れていなかったが、これも同じく台湾にルーツを持つ余 貴美子が母親役を演じていたが、彼女の個性豊かな演技というものの根源が国境を越えた何物かに求められると考えるのは穿った見方であろうか


しかしアジア近代史というものは、こうした彼ら、彼女らの一族のルーツを辿る旅の中から当然にも埋もれた歴史が産み落とした物語として語り継がれ、そして歌手、役者としての異能を介して、ボクたちに届けられるということは、とてもありがたく、より愛おしく感じさせられてしまう。
映画評の方はどうであったか知らないが、「侯孝賢」、「一青窈」、「小津安二郎」という記号が並ぶだけで、ただそれだけでボクはありがたくスクリーンの前に腰掛けたのだった。
加えて、彼女の役名は「井上陽子」、このコラムにも明かされているように、彼女が尊敬してやまないという「井上陽水」から取った名前だった(この映画の主題歌も揚水の曲に一青の詞を付けた「一思案」)が、これまた好きな歌手で、どんどんと連想ゲームのように、そしてそれら全てが敬愛して止まないアーティストであることに、何ともはや、そこに貫かれている1本の糸が、何を意味しているのか、心暖かく思われる一方、あらためてその意味するところを深く問われているようでもあり、複雑な思いにさせられるのだった。
決して数珠繋がりにファンになったというのではなく、いずれも関連性を前提としない全く異なるジャンルの個別の好感対象であったものが、ある時何かをきっかけとして見事に繋がっていくという不思議な体験をさせられているようなもの。
ジグソーパズルがズバリと組み上がったかのように‥‥。
今彼女はもう1つのルーツ、台湾へと足繁く通い交流を盛んにしているらしく、コンサートの企画もあるのだという。台湾の人々の胸に彼女の唄はどのように響くのであろうか。
*「朝日新聞」コラム「一青姉妹と顔(がん)家」 ─ アジアズームイン ─
    (08/10/27〜10/31)
*New Album:11/19リリース予定「Key〜talkie Doorkey」Live CD

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