工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

2008年はどのように記憶されるか

2008年
冷え込みが一段と強くなってきた。
予報に反し夕刻前に少しだけミゾレ交じりかと思うほどの冷たい雨が降っていた。
寒波到来という感じで北陸、東北地域の一部では吹雪いてもいるようだ。
ここから望む富士の山の積雪量も例年になく多いようだ。
画像は制作した家具に記す年号だが、この2008を使えるのも今日を含めてもわずか7日となってしまった。
9月のリーマン・ブラザーズの経営破綻に発する金融破綻と世界同時不況の嵐は当初の想定をはるかに超えて国内製造業のドラスティックな縮小傾向を見せてきている。
小泉-竹中路線の下でのカイカクという名の規制緩和がもたらした、非正規雇用、派遣社員といった雇用関係の変容は、今その本質が露わになってきている。
いわゆる派遣切り、内定取り消しという労働者の切り捨てが当たり前のようにまかり通っている異様な光景は、カイカク路線を邁進してきた1つの帰結だ。
無論尋常ではない国際経済の冷え込み、超円高は輸出産業の衰退を招くことは必然的かも知れない。
しかしだからといって産業を支えてきた労働者を紙くずのように切って捨て、路上にほっぽり出すというのは果たしてGDP2位の国がやる作法として本当にふさわしいものなのだろうか。


近代資本主義とは必ず社会政策(社会保障制度、公共政策など)というものがセットとなって成立するものだということを近代人は学んできたはずだったのではないか。
しかも激烈な労働運動、社会改革運動、革命運動という血で贖ってきた果実であったものだ。
それだけに西欧では同じような労働者切り捨ての問題があれば、必ずやデモンストレーション、ストライキなどといった権利の主張、異議申し立ての方途というものへの社会的合意があり、それらによる生活上の不便は受忍するという国民性、エートスというものが連綿として残されてきた。
日本ではこうしたものが80年代後半以降、完全に葬り去られ、労働運動、社会運動というものが成立する基盤を失ってきている。
新自由主義を突っ走ってきた結果というものがリーマン・ブラザーズの破綻に発する金融資本の暴虐性の暴露であるとすれば、派遣切り、内定取り消しという労働者の切り捨ては小泉-竹中路線を信奉してきた社会経済政策の帰結でなくて何であるか。
社会政策がとられるようになるはるか以前の、こうした百数十年前の資本主義の勃興期のような、まるであからさまな資本の論理で労働者をこき使うこと自体アナクロニズムだ。
人間って、どうしてこうも愚かな生き物なのだろうか。
せめて悪いことは学習して、生きながらえるように自制するというのが生物の本能であるはずだが、完全に逸脱している。
さて、昨今、本来のセーフティーネットの不整備の下、多くの派遣切りの労働者がこの寒空の下で凍え死ぬのも必至の情勢下、多くの民間ネットワーク、あるいは各地域の自治体が救いの手を差し伸べようとする新たな動きが見られるのは一縷の望みである。
自治体などは、やや横並びの意識が透けて見える部分も無くはないが、こうしたことは大いに横並びでありたいもの。
仕事納めは明日だ。役所の窓口が閉まる前に、ぜひ関係者は登録して、暖かい布団にくるまって年越ししていただきたい。
2008年がどのように記憶されるのかはボクたちひとり一人の価値観、人生観、社会観によって様々だろうが、せめて後段に少しだけ触れた、温かい手のぬくもりが差し伸べられた年でもあったことを記したいものだ。
例え苦しくても生き抜くところから、明日は拓けてくる。

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