震災から5年という月日が意味するもの
高浜原発・運転差し止めの仮処分決定
311・F1過酷事故から5年目を数日後に控え、高浜原発の立地県の隣、大津地裁 ・山本善彦裁判長は9日、滋賀県の住民29人の訴えを認め、稼働中の原発に対しては初めて、高浜原発、2基の運転を差し止める仮処分決定を下した。
NHKの速報が耳に入ったのは移動中の車のラジオからだったが、すぐに駐車場に車を止め、TVに切り換え、再確認後にTwitterで拡散。
iPhoneのキータッチは少し震えていたと思う。
それほどに唐突な感が否めなかった。
最初は前の週、高浜原発4号機の再稼働から本格的発送電に入る矢先の変圧器トラブルとかによる停止、再調査に関わる事案へのイエローカードかと早とちりさせられたのだったが、さにあらず、運転差し止めの住民訴訟への司法判断だったと認識し、あらためて、事の重大さに気づいたというわけだ。
つまり、現在運転中の3号機を含む、関西電力高浜原発3、4号機を停めよ、という前例の無いセンセーショナルとでも形容したくなるほどの司法判断だった。
識者によれば、かなり粗雑な検討しかなされていないとする原子力ムラ的受け止めも無くは無いが、「全体としては是々非々の、バランスのとれた決定」「裁判所は政府の主張を機械的に追認するのではなく、自分の頭で一つ一つ主要な争点を判断している。かなり高度なレベルで判断しており、非常に真摯な姿勢で取り組んでいる。原発に対して批判的な技術専門家の判断が生かされた形だ」(吉岡斉・九州大教授)といったところが、大方の受け止め方と言って良いだろう。
私が我が意を得たりと感じた件(くだり)はこうだ。
「あの事故はいまだに終息せず、汚染水は流れ続け、事故原因も明らかになっていない」
大津地裁 ・山本善彦裁判長は市民の当たり前の感覚、受け止め方に立ち、ここに専門的な知見を加え、2016年という年に日本という国が置かれた状況を見据え、さらには近未来から演繹した場合に、日本に課された課題は何か、とする大きなパースペグティヴな視野に立った判定を下したものと思う。
関電はこの決定に異議申し立てをするだろう。これには新たに別の裁判官による司法判断が下されることになり、仮処分は結局は取り消されるとする見立てに立つ人も少なく無い。
しかし、この裁判官は仮処分の判定に貫かれた人間社会への尊厳、法哲学を越えた論理展開と真摯に立ち向かう姿勢が無ければ、そんなものは歴史の評価に耐えられるはずも無い。
「集中復興期間」は終わる
3.11東日本大震災での地震、津波、原発事故による直接的な被災者は34万人と言われ、5年が経過した現在もなお、17万人を越える人々が避難を余儀なくされ、そのうち、応急仮設住宅 に暮らすのは156,000人だという[1]
5年を経、未だに17万人を越える人々が劣悪な住環境に置かれているという実態は何を意味するのだろう。
復興予算が足りていないのだろうか。
いやそんなはずはない。2011年からこの5年間の「集中復興期間」で総額26.3兆円が投じられている。
さらにこの先5年間(2020年東京五輪の年度)を「復興・創生期間」と名付け、6.5兆円を計上しようとしている。[2]
合わせ、10年間で総額32兆8,000億円。
たぶん、世界広といえどこれだけの巨額を自然災害復興に投じた国は無い。
大ざっぱで誤解を招く手法と論難されるのを覚悟で、あえて避難者の頭数で割ってみようか。
・・・家族が4人であれば、3億8,500万円という巨額にのぼる
無論、破壊されたインフラや鉄道、道路網の復興、市町村、居住地の再建等、巨額のインフラ投資が必要なのは否定しない。
被災地では槌音高く、居住地の高台移転、あるいは海の光景を遮断するほどの巨大防潮堤の建設が進められている。
・・・ちょっとだけ待って欲しい
高台に作られる小規模ニュータウンに入居する人の多くは高齢者という地区も少なく無い。
これはその地区から産業が出て行ってしまい、若者の就労受け入れが困難という問題があるからだ。
立派な施設や住宅ができる一方で、過疎化と高齢化は待ったなしに進んでいく。
これらニュータウンへの公的サービス(行政による下水道整備などのインフラ管理)もバカにならないわけで、10年後、20年後は果たしてどうなっていくのだろう。
多くの若い人が抜けていった三陸の小さな漁村にそびえるように屹立する巨大防潮堤。
留守を預かる妻は、海を眺めては夫の無事と大漁を願い、船の帰還を待つ。
そうした数千年にわたって続けられてきた三陸の漁師の生活は、屹立する巨大防潮堤に遮られ、顔は曇る。
コンクリートで自然災害をシャットアウトするという、謂わば近代知の思考は明治以降の日本に近代化をもたらしたことは間違いないところであっても、第1次産業としての三陸の漁業が、この近代化理念で果たして成立するのだろうか、という思いは拭いきれない。
数千年にわたり営々として引き継がれてきた漁師の死生観、生活哲学を蹂躙するかのようなコンクリート壁は、本当に彼らの未来にとり、必要不可欠なものであるのかの問いは、決して不当では無いだろう。
311直前までは民主党政権下と言うこともあり「コンクリートから人へ」と、公共事業中心の土建国家からの脱却が図られつつあった日本だったが、この311で一気に「コンクリート国家」に舞い戻ってしまった。
こうした、いわば財界の悲願が、311を天啓とするかのように「復興」が利用されているという側面は否めない。
さらにはまた「復興バブル」で道路建設では談合がはびこり、当然にも資材とともに、全国の土木、建設業の単価は高騰している(おかげで、私の新工房建造の予算も跳ね上がり資金調達の困難を強いられた←ただ、貧乏だったからということもあるけど)。
こうした許せないことへの怒りの閾値は低くなり、今さら驚かなくなってしまっているが、「復興」には全く無縁のところに、この「復興」予算が流用されていることは屡々報じられ、さすがの不感症にも火がつく [3]
自治体によっては、311以前からの願望だった身の丈の合わない道路やハコモノが、この時とばかりに建造されたものもあるようだし(ほぼ全額が国の予算)、その後の維持管理費用は、果たして地元自治体で賄えていくのだろうかとの余計な心配までしてしまうが、いや決して余計な心配ではなく、これは私たちの血税の使途は責任を持ち監視するという立場から、無視できない事柄なんだ。
件の甘利明TPP担当大臣の金銭授受疑惑で口の端に上ったUR(独立行政法人都市再生機構)だが、これら高台移転、災害住宅の建造を一手に担ったとされ(地方自治体で担うほどの規模を越え、必要とされるノウハウもなかった)、そもそも整理縮小されるはずだったURにとり、まさに311は天恵であったわけで、その甘い汁に群がったのが甘利明と秘書たちだったという構図がある。
日本の経済社会にはびこってきたこうした土建屋的体質。今また「復興」の御旗の下、大手を振って再興しているという現実もまた、5年目の日本を覆う灰色の霧の正体の1つだ。
そして、現在もなお避難している人々が17万人という現実。
彼らへの支援は実に貧しく、これまで投下された直接的な支援額は、上記した計算額に近いはずが無いのは分かってはいるけれど、なんとわずかに1%だと言われている。
これらから見えるのは、日本の災害復興とは被災者が失ってしまった生活基盤の再建に注がれるのでは無く、インフラ整備に集中的に投下されるという、60〜80年代の公共工事を梃子として経済を回し、高度経済成長を遂げてきた、かつての時代の手法と思考を劣化複製させているだけに過ぎないのではないのだろうかという思いである。(続
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❖ 脚注
- 復興庁「全国の避難者等の数」こちら:PDF [↩]
- 「巨額復興、道半ば 工費高騰、災害住宅完成遅れ 東日本大震災5年」 [↩]
- 復興予算はなぜ被災者支援に届かなかったのか? 復興を食い物にする政治家、官僚 [↩]