工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

職業としての家具作りについて(4)

家具製作に求められるもの

消費社会がもたらした画一的な商品としての家具の氾濫は極限的なまでに進行する欲望社会の到来と呼応する形でより無機質に、デザインされることすら罪であるかのようなミニマルデザインがもてはやされるなどの混迷期に突入しているかのようだ。
そうしたものはインテリア雑誌を飾るとともに都市の先進的な消費空間、カフェ、飲食店などにはお似合いであろう。
これらはしかし、デザインとしての耐久性は低く、次から次へと猫の目のように取り替えられていく宿命でしかない。つまりは消費されていくものとしての制約下での有用性なのだ。

人々が生活する住空間ではどうであろうか。
消費空間、勤労空間において求められるものとは明らかに異なるものを必要とするだろう。
単なる機能主義ではなく、欲望を刺激させるデザインのようなものではなく、やはり1日の労働を終え、一人で、あるいは家族と、そしてまた恋人と、友人と…、決して長い時間でないかも知れないが、しかしそれだけにまた貴重な時間を共有するために求められるものがある。


必要とされる機能を十分に満たし、そしてこの機能に適切にマッチする決して過剰ではないデザインが施されることで、より美しく快適な生活空間に寄与する。
過剰ではなく、かといって鈍くさくなく、様々な生活道具の中心に位置づけられるにふさわしい高品質で、品格があり、そのオーナーの感性、教養をも感じさせるような、何ものか。
これはまたそのオーナーと周りの人々との暮らしの歴史を刻み、記憶となって次の世代へと伝えられるもの。

当然にもこうした条件を満たすには、必要にして十分な堅牢性と、時代を超えた基本的なデザインが要求される、そうしたもの。

現代に於いて求められる生活空間での家具にこうした定義づけがされるとすれば、さて具体的はどのようなものが要求されるのだろう。

  • 家具という商品に求められる基本的な構造を満たすものでなければならない。
  • 木という自然有機物としての特性を良く理解し、求められる機能を果たすために必要にして十分な技法が投下され、構造的強度、堅牢性を確保するものでなければならない。
    「手作り」という位置づけが、現代の工業生産物における品質に劣るものと同義とされるようであれば、あまりにもその存在はむなしいものでしかないだろう。
  • デザインとしてはまずは求められる機能を満たすために適切なものでなければならないことは言うまでもないが、次には近代という果実の魅力を味わってきてしまった現代人にふさわしい、高品位で、教養を感じさせる工芸品としての佇まいをも与えるものでありたい。
    「手作り」という位置づけが、単なるプリミティヴであるとか、近代以前に立ち戻るようなものだとすれば、それは叶わぬ時代への抗いでしかないだろう。

私たち木工屋の製作する家具がこのような現代の家具に求められる必須の要件から決して自由なものであるわけではないだろう。何か特殊に逃れられるものであるとすれば大きな思い違いでしかない。
等しく、いやより厳しく求められるものであることを銘記せねばならないだろう。

しかも家具作家としての顕名性を前提とするならば、より求められる基準は高いものとなることは言うまでもない。
様々な伝統的様式を知悉、理解し、現代という時代性をつかみ取る感性と体現させる力、そして未来社会をも標榜できる先見性を磨き上げる資質というものを日々獲得していかねばならないかもしれない。

優れた美意識とともに、これを家具というものに対象化できるデザイン力、このデザインを具体的にモノへと具現化できる熟練した技術力を獲得していかねばならないのだ。
*この「職業としての家具作りについて」シリーズは新たに同名のカテゴリーを設け、ここに一元保存することにしました。

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